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ゲンスブールとバーキン |
シャンソンは、朗々と歌い上げる曲、あるいはパリのエスプリを感じさせる小粋な歌、いずれも素晴らしいとは思いますが、さほど好みではありません。戦後すぐ多感な時期を送った先輩たちにとって、シャンソンは、粋な文化の香がしたのでしょう。シャンソンもカンツオーネも、単に”歌”を意味する言葉であり、特定のジャンルではありません。60年代になると、フランスでは、”イエイエ”と呼ばれるポップが主流となります。日本では、フレンチ・ポップと呼ばれ、ミッシェル・ポルナレフ、シルヴィ・ヴァルタン、フランソワーズ・アルディ等がヒットを飛ばしました。
フレンチ・ポップの時代を切り開き、常にビッグ・ネームであり続けたのは、セルジュ・ゲンスブールです。1965年、フランス・ギャルが歌って世界的にヒットした「夢見るシャンソン人形」は、ゲンスブールの曲です。伝統的なシャンソンとまったく異なる楽曲は、ゲンスブールの過激な言動と相まって、大いに批判されたようです。日本ではシャンソン人形とされましたが、原題は蝋人形であり、伝統的なシャンソン歌手を皮肉っているとも言われます。ただ、カウンター・カルチャーの時代にあって、フランスのみならず、世界中の若者から絶大な支持を得たわけです。
ゲンスブールの私生活もスキャンダラスでした。既婚者であったブリジット・バルドーと浮名を流し、デュエットもリリースしています。ジェーン・バーキンとは事実婚の関係となり、その性的表現ゆえ多くの国で放送禁止となった「ジュ・テーム(・モワ・ノン・プリュ )」をデュエットし、大ヒットさせています。この曲は、もともとバルドーと録音したものの、夫が激怒することをバルドーが恐れ、お蔵入りとなっていたものでした。バーキンと破局後も、ゲンスブールの女性遍歴は、亡くなるまで続きました。
ゲンスブールの墓には、今も多くの人が訪れ、花が絶えることがないと聞きます。旧体制とは一線を画すその楽曲や姿勢は、60年代の若者文化の象徴であり、同じ時代を生きた人々にとっては、青春そのものなのでしょう。そして、それ以上に、ゲンスブールの音楽的センスの良さは天才的であり、歌詞、メロディ、編曲、そして醸し出される独特なムードは、唯一無二とも言えます。フランソワーズ・アルディのカバーもヒットした”L'anamour”やカトリーヌ・ドヌーブとデュエットした”Dieu fumeur de havanes”等は、今でもよく聞きます。(写真出典:elle.com)