2021年7月23日金曜日

華氏451

NHKの「100分de名著」は、なかなか面白い番組です。いつも見ているわけではないのですが、先日、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」(1953)を取り上げた放送を見ました。華氏451度は摂氏にすると233度になりますが、紙が自然発火する温度だとされています。 「華氏451度」は、本を読むこと、本を所持することが禁じられた世界を描くSF小説です。無機質で、画一化された全体主義の恐ろしさを伝え、物質文明の持つ体制順応的傾向に警告を発した本です。番組を見ているうちに、フランソワ・トリフォー監督の名作「華氏451」(1966)が、無性に見たくなりました。幸い、Amazon Primeで、久々に見ることができました。

主人公の職業ファイアマンは、消防士という意味ですが、「華氏451」の世界では、火を消すのではなく、本を見つけて、焼き尽くす仕事です。焚書は、歴史の混乱のなかで、しばしば行われてきました。最も有名なのは、秦の始皇帝による「焚書坑儒」、そしてナチスによる焚書だと思われます。始皇帝は、秦の統一国家体制を批判する儒家はじめ諸子百家の本を燃やしました。ナチスは、カール・マルクスの著書等「非ドイツ的」な書物、あるいは近代的絵画を退廃的として燃やしました。つまり、焚書は体制にとって危険な思想を弾圧していますが、「華氏451度」の世界では、すべての本とその”弊害”が弾圧されます。

ファイアマンの所長は、アリストテレスを読むと、自分が偉くなったと信じ込む、それはよくない、幸福な道は、万人が同じであることだ、と語ります。全体主義の戦略を雄弁に語るセリフです。画一的な家に住み、画一的なTV番組を見せられ、人々は思考することを止めていきます。その先に焚書があります。ブラッドベリが「華氏451度」を書いた時代、アメリカは、まさに急速な物質文明化を進めていました。郊外の家、車、家電、スーパーマーケット、これが幸福への道だと、皆が信じ始めていました。その先にある思考停止の状態を、ブラッドベリは警告したのでしょう。

斬新で美しい映像、巧みな映画文法、いつもながらトリフォーには感心させられます。英国での撮影は、英語が得意ではないトリフォーにとって苦痛だったと聞いたことがあります。確かに、いつもの流れるような演出ではないようにも思えます、しかし、それが、かえって緊張感を生み出しているようにも思えます。象徴的存在である二人の女性をジュリー・クリスティーが一人で演じ分けています。さすがの存在感です。「ダーリング」でアカデミー主演女優賞を獲っていますが、デヴィッド・リーン監督の「ドクトル・ジバコ」、あるいはハル・アシュビー監督の「シャンプー」は印象に残ります。

映画のなかで、実に多くの本が焼かれていきますが、結構、本のタイトルが分かるような撮り方をしています。つまり、トリフォーは、焼かれる本を、丁寧に選んでいるように思われます。反体制派の隠れ図書館のような家が焼かれる際、主人公は一冊の本をバッグに隠します。カスパー・ハウザーに関する本でした。19世紀初頭のニュルンベルクで発見された謎の少年です。少年は、世間と全く隔離された環境で16歳頃まで育ったと推定され、常識も、言葉も、人間としての後天的知識を一切持たず、ただ異様に鋭敏な五感を持っていたとされます。カスパー・ハウザーを、全体主義下の社会に重ね合わせていたのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

マクア渓谷