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しゃもじ塚 |
結論から言えば、承平天慶の乱は、地方で実力を蓄えた武家が、はじめて朝廷に逆らった事件だったこと、つまり律令体制の衰退と武家の台頭を象徴していることから、とりわけ重視されるのでしょう。乱の規模や期間の長短は問題ではないということです。とは言え、3年に及んだ平忠常の乱は、房総三カ国を荒廃させ、上総国では2万2千町あった田んぼが18町にまで減り、下総守の妻子まで餓死したと伝わります。空前絶後とも言える荒廃ぶりですが、戦場になったからというよりは、当初、追討使に任ぜられた平直方率いる朝廷軍の仕業だったようです。敵軍の兵糧を絶つことは常道ではありますが、農耕地を荒しまくったとすれば尋常ならざることに思えます。その背景には、坂東平氏の内紛があったとされています。
平氏は、系統が複雑で分かりにくい面があり、平忠常の乱の知名度が低い理由の一つはここにあると思います。いわゆる”源平藤橘”の四姓は、7~9世紀初頭に成立した古い氏族であり、多く枝分かれして裾野を広げています。四姓のなかで、平氏だけが氏長者と呼ばれる族長が存在しなかったとされます。それが平氏を分かりにくくしている面があると思います。平氏には、4つの系統があり、最も栄えたのが桓武天皇の子孫である桓武平氏ということになります。桓武平氏のうち、桓武天皇の三男・葛原親王の長男に発する高棟流、三男に始まる高望流、高望流から分かれた伊勢平氏の三氏が最も有名です。高棟流は、都で公家として生きます。高望流は関東で武家貴族として根を張り坂東平氏として勢力を拡大します。伊勢平氏は、後に平清盛を輩出します。
平高望の三男・良将の嫡男である平将門が女性問題を機に叔父である平高望の嫡男・国香を焼死させたことから将門の乱が起きます。最終的に将門を討ったのは、国香の嫡男・平貞盛であり、常陸平氏として大きな勢力を持つに至ります。一方、関東南部では、平高望の側室の子であった平良文が下総・上総の両国で権勢を振い、常陸平氏と敵対する関係になります。その孫である平忠常は、房総三カ国のうち残る一カ国であった安房に攻め込みます。平忠常の乱の始まりです。関白・藤原頼通は、平直方を追討使に任じます。直方は国香のひ孫にあたり、常陸平氏の直系ながら都で藤原頼通に長く使えていました。追討使任命は、直方の働きかけだったとされます。常陸平氏は、朝廷を後ろ盾に宿敵・平良文流を叩く機会を得たわけです。
直方は房総三カ国を荒らしますが、忠常を討つことができず追討使を解任され、後任には道長四天王の一人で河内源氏の祖・源頼信が任命されます。すると、忠常は戦わずして降伏します。かつて頼信と主従関係にあり、かつ、領地の荒廃も含めて戦力を失っていたためとされます。恐らく、平氏の内紛は後に引けないとしても、朝廷に徹底抗戦する気はなかったのでしょう。忠常は都へ移送される道中、関ヶ原で病死しています。農民がしゃもじに乗せた飯を差し出すと、それを頬張り亡くなったとされ、墓はしゃもじ塚と呼ばれます。頼信の嫡男・頼義は、直方の娘と結婚し、嫡男として源頼朝が生まれます。頼義は、坂東平氏を傘下に置き、その領地も手に入れます。そのなかには鎌倉も含まれていました。以降、河内源氏は東国の覇者としての地位を確立し、陸奥へと勢力を拡大していきます。将門の乱は武家の台頭を象徴しますが、忠常の乱は鎌倉幕府の起点になったと言えるのではないでしょうか。(写真出典:sekigahara1600.com)