2024年12月3日火曜日

味の素

1985年、特許庁が「日本の十大発明家」を選定し、顕彰しています。豊田佐吉、御木本幸吉らとともに、うま味成分とL-グルタミン酸ナトリウムの発見者として池田菊苗の名前もあります。東京帝国大学教授だった池田は、人間の味覚には、甘味、酸味、塩味、苦味の他にうま味があることを証明し、その素になっているL-グルタミン酸ナトリウムを発見しました。1907年のことです。幼少期から昆布だしに興味を持っていた池田は、昆布の煮汁からL-グルタミン酸ナトリウムを抽出することに成功しています。この発明に目を付けたのが、ヨードの製造で名をなしていた葉山の実業家・鈴木三郎助でした。1909年には、世界初のうま味調味料として「味の素」を発売します。

しかし、発売当初はまったく売れなかったようです。また、品質も安定しておらず、製造コストも高かったようです。鈴木は、製造過程で出るデンプンを紡績会社に売ったり、他の化成品を製造したり、あるいは電力事業に参入するなどして事業を継続したとされます。味の素の躍進のきっかけとなったのは、出汁の文化を持つ大阪で受け入れられたことだったようです。また、大正期末期、ジャーナリストの宮本外骨が、味の素の原料は蛇だというネガティブ・キャンペーンを張ります。鈴木は新聞広告をもってこれに対抗します。これが味の素の知名度向上に寄与しました。また、当初から積極的に海外展開も行い、1917年にはNY事務所を開設しています。米国で、ハインツ、キャンベルから大量受注したこともはずみになったようです。

戦後、穴付容器が登場すると、味の素は爆発的に普及していきます。ただ、一方では、しばしば風評被害も受けています。かつて味の素は製造過程において石油由来の化成品を使っていたため、その安全性が議論されたこともありました。私の父親は、それを気にしたため、実家ではほとんど味の素を使っていませんでした。しかし、他の家では、卓上に味の素のビンが置かれ、何にでもバンバンかけていたものです。友人の家では、ホウレンソウのお浸しが白くなるほど味の素をかけていました。まるで日本中が味の素中毒に陥ったような状態でした。経済復興や高度成長を背景に、国民が美味しさを求めるようになったということなのでしょう。しかし、1970年代になると、日本の食卓から味の素が消えていくことになります。

その最大の要因とされるのが、1968年、アメリカで起こった中華料理店症候群という問題です。中華料理を食べたアメリカ人のなかで、頭痛や発熱といった症状が起こり、その原因がグルタミン酸ナトリウムだとされました。当時、アメリカの中華料理店等では、味の素によるグルタミン酸ナトリウムの使用が定着していました。現在では、その因果関係は完全に否定されていますが、当時は、化学肥料や食品添加物の悪影響を懸念する動きが起こっており、味の素も標的にされたわけです。しかし、国内に限って言えば、家庭内の味の素は、卓上から消えただけであって、1970年発売の顆粒状の”ほんだし”へと置き換わっていったということなのでしょう。言ってみれば、白い粉の化成品が鰹風味の出汁へと変化したわけです。

現在、味の素の主戦場はアジア各国に移り、国内での精製も行われていないようです。ただ、国内でも業務用としてのニーズは高いようです。例えば、博多名物のとんこつラーメンが、とんこつスープと大量の味の素でできていることは、福岡県民の常識だと聞きます。近年、同じ福岡の「茅乃舎だし」に始まる出汁ブームが続いています。背景には、健康指向や本物志向があるとされます。しかし、出汁ブームといっても、昆布と鰹節から出汁をとるのではなく、あくまでも合わせだしのパックを使うということです。つまり、ほんだしが生み出した簡便で安価に出汁をとるスタイルこそがブームのきっかけだったと言えます。いずれにしても、今も昔も、味の素は日本の食文化をしっかり担っているわけです。(写真出典:ajinomoto.co.jp)

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