2024年11月27日水曜日

渡航制限

宴席でのことですが、後輩から、これまで何カ国へ行ったのか、と聞かれました。数えてみると、トランジットを除いて22カ国になりました。そんな程度だったのか、とも思いましたが、その場にいた人のなかでは一番多くの国に渡航していました。米国駐在員や海外出張の経験もありますが、一番年上だったことが主な理由なのでしょう。アメリカのピュー研究所が、2023年春に行った調査に依れば、日本人が海外旅行で訪れた国の数は、1~4カ国が46%、5~9カ国が11%、10カ国以上が8%、経験なしが34%となっていました。Agota社が、2019年に行った調査では、日本人の平均海外渡航国数は5カ国、海外旅行経験なしが19%となっています。

2019年と2023年調査結果の差は、コロナ禍、円安、原油高の影響によるのではないかと思われます。ちなみに、ピュー研究所のデータで、10カ国以上の海外経験者が多い国は、スウェーデン、オランダ、イギリスがトップ3となっています。こうした調査は、恐らくマーケティング用なのでしょうが、海外旅行経験の国別比較など、ほとんど意味がないと思います。その背景にある経済力、アクセスの良さ、社会環境が明らかに異なるからです。ただ、各国における海外渡航の変遷は、社会史としては、一つの視点になり得ると思います。日本の場合は、太古の昔から大陸との交流のなかで国を形成してきたとも言えます。有史以降も、戦争を含めた国同士の関わりに限らず、民間による経済的交流も行われてきました。

物見遊山の旅に関しては、江戸期の鎖国政策もあり、始まったのは明治以降ということになります。とは言え、制約も多く、コストもかかり、一般大衆には縁遠いものでした。昭和に入り、軍国主義の時代を迎えると、渡航制限は一層強まります。敗戦後、今度はGHQが渡航制限を課しますが、それはGHQの意図したものではなかったようです。もちろん、戦後の外貨不足が渡航制限につながった面はあるものの、GHQ としては、民主化を進めるため日本人の海外渡航を促進したかったようです。ところが、そこに立ちはだかったのは11カ国で構成される極東委員会でした。極東委員会は、占領政策の決定機関でした。大戦中、日本の侵略を受けた国々は、自国の国民感情を考慮して、日本人が海外に出ることに反対したわけです。

また、GHQは、共産党の会議に出席するための海外渡航を認めませんでした。極東委員会の一員であったソヴィエトは激怒し、GHQの海外渡航拡大方針そのものにも反対します。日本人の海外渡航は、東西冷戦の影響を受けて進まなかったとも言えそうです。1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は再独立を果たしますが、日本政府は外貨不足がゆえに海外渡航の制限を継続します。持出外貨は制限されたものの、観光目的の海外旅行が自由化されたのは、1964年のことでした。東京オリンピックが開催された年でもありますが、奇跡の経済復興を遂げた日本が、経済協力開発機構(OECD)への加盟、そして国際通貨基金(IMF)8条国への移行を実現し、国際社会に本格復帰した年でもありました。

日本人の海外渡航が拡大したのは、1970年代後半のことです。1976年、ニクソン・ショックをうけドルが変動相場制へ移行。長く続いた1$=360円という固定相場が終わり、円高が進みます。高度成長下で豊かになった日本人は、円高で割安になった海外旅行へと殺到します。1985年のプラザ合意後は、さらに円高が進み、海外渡航者は急拡大、日本人は世界中でショッピングしまくり状態へと入ります。昨年以降、コロナ禍等で激減した海外渡航者数は回復してきたようですが、円安、原油高の影響が続き、コロナ前の水準には戻っていないようです。逆に、円安は、インバウンド客の急増につながっています。GHQがねらったのは、海外渡航を促進することで日本人の国際感覚を高め、民主化を進めることでした。実は、外国人旅行者が増えることも、日本人の国際感覚を高めることには大きく寄与するものと考えます。(写真:1965年ジャルパック第1陣 出典:jalpak.jp)

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