2024年11月25日月曜日

湯豆腐

湯豆腐や いのちのはての うすあかり      久保田万太郎

京都で一番美味しい豆腐屋は、嵯峨野の森嘉と言われます。京都や大阪の百貨店でも買うことができますが、旅先でもあり、買って食べたことはありません。ただ、森嘉の豆腐を使っている料理店は、嵯峨野・嵐山界隈を中心にいくつかあり、そこで食べることができます。私も「湯豆腐 嵯峨野」や「湯豆腐 竹むら」で食べたことがあります。美味しいのですが、他の京都の豆腐との違いまでは分かりませんでした。そもそも京都で食べる湯豆腐は、上品な豆腐もさることながら、風情あふれる庭などのしつらえも含めて、どこでも美味しくいただけます。湯豆腐好きとして、京都の主な有名店には行ったと思うのですが、最も多く行った店は産寧坂の「奥丹清水」だと思います。豆腐や庭に加え、清水詣の際に立ち寄りやすい立地も良い店です。

湯豆腐の最も基本的な作り方は、土鍋に昆布と水を入れて火にかけ、煮立てずに絹豆腐を温めるということになります。たれは、土佐醤油が基本だと思いますが、ポン酢という人もいます。ポン酢は、出汁醤油そのものでもあり、湯豆腐にも合います。薬味は、紅葉おろしかおろし生姜、刻みねぎが基本だと思います。刻み海苔、大根おろし、鰹節、柚子なども合います。食べ終わったら、豆腐を炊いた昆布出汁をたれに注いで楽しみます。土佐醤油は、酒、味醂、醤油を煮切ってから鰹節を入れて、さらに短時間煮立たせます。そのあと、少し置くと鰹節の風味が利いた土佐醤油になります。奥丹では、土鍋の真ん中に土佐醤油の入った徳利を入れ、冷めないようにしています。実家では蕎麦ちょこを使っていました。

豆腐は、紀元前2世紀、淮南王・劉安が考案したとされています。ただ、実際には、8~9世紀の唐代において、騎馬民族の乳製品を参考に作られたもののようです。日本へは遣唐使がもたらし、鎌倉時代には庶民にも広がり、江戸期には一般的な食材になっていたようです。湯豆腐の起源に関する資料は残っていないようですが、鎌倉時代、南禅寺の禅僧たちが、精進料理の一つとして考案したとされています。豆腐は、8~9割が水という食品です。それを水で炊くわけですから、湯豆腐は水を味わっているようなものです。それだけに、豆腐のみならず、湯豆腐も水の良し悪しが美味しさを左右します。美味しい水が豊富な京都は最適な土地と言えます。ミネラル分の多い硬水で炊くと豆腐は固くなります。京都の水の柔らかさが豆腐や湯豆腐に最適なわけです。

それにしても湯豆腐は、なんとシンプルな料理なのでしょうか。にも関わらず、人を温め、幸せにする絶品でもあります。冒頭に掲げた久保田万次郎の俳句は名作として知られます。最愛の女性を失った後、しかも万次郎自身の死の半年前に詠まれた句です。命の儚さを詠んだ句とされます。”うすあかり”は死後の世界を表わすと言うのですが、そうなのでしょうか。万次郎が、湯気の向こうの白くもろい豆腐に見たものは、愛する人を失った悲しみや死がもたらす絶望などではなく、むしろ儚い人生の向こうにある安らぎや穏やかさであり、ある意味、さとりだったのではないでしょうか。禅僧が考案したからというわけではありませんが、湯豆腐には、どこか禅に通じるシンプルさがあるように思えます。食べる禅と言えば、言い過ぎでしょうか。

久保田万次郎は、浅草出身の小説家、劇作家、演出家、俳人です。戦後の文壇を代表する重鎮として知られますが、演劇界の大御所といったイメージが強い人です。脚本も書けば、演出も行い、新劇から歌舞伎までと幅広く手がけています。浅草出身ということもあり、美食家としても知られていたようです。恐らく湯豆腐にも、一家言あったものと思われます。その万次郎は、赤貝の鮨を喉につまらせ亡くなっています。日頃から、噛みきれない赤貝は口にしていなかったようですが、梅原龍三郎邸で行われた宴席の場で、勧められるままに口にしたのだそうです。老境に至れば、気をつけるべきことは増える一方ですが、その一つが誤嚥であり、窒息の恐れがあります。湯豆腐に関して言えば、ほぼ、その心配はありません。(写真出典:sapiko-laughalot.com)

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