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武原はん「雪」 |
大店の若旦那と、お茶屋の娘で芸子の小糸は、相思相愛の仲となります。大店では、お茶屋通いが過ぎる若旦那をどうするか話し合うために親族会議が持たれます。番頭の提案によって、若旦那は、百日間、蔵に閉じ込められます。若旦那と番頭とのやりとりは、聴かせどころの一つです。音信不通となった若旦那を恋い焦がれた小糸は衰弱し、若旦那にもらった三味線を抱えながら命を落とします。ようやく蔵を出された若旦那はお茶屋へ駆けつけますが、小糸の死を告げられます。詫びながら線香をあげていると、仏前の三味線が鳴り始め、地唄が聞こえてきます。小糸の声でした。自分が好きな地唄を唄う小糸の声に若旦那は涙を流しますが、突如、三味線は止みます。動揺する若旦那に、女将は、仏壇の線香がちょうど”たちぎれ”ました、と告げます。
かつては、芸子の花代を勘定するために線香が焚かれていました。タイム・チャージを計る時計の代わりです。京都の花街では、今も線香代という言葉が残っています。”たちぎれ”とは、経ち切れと書くのが正しいのでしょう。今となっては分かりにくい落ちですが、枕で線香代の解説が行われます。また、上方落語では、しばしば噺のなかに囃子方による演奏が入ります。ハメモノと呼ばれています。「たちぎれ線香」に入るハメモノの地唄は、名曲「雪」と決まっているようです。「黒髪」等とともに、地唄の傑作とされる「雪」は、江戸末期、流石庵羽積の歌詞に峰崎勾当が曲を付けています。男に捨てられて出家した芸妓が、雪の降る夜、かつての恋人を思い、一人寝のわびしさに涙する、といった内容の唄です。
単によく知られた地唄と言うだけでなく、「たちぎれ線香」には相応しい曲だと言えるのでしょう。後に「雪」には踊りが付けられ、地唄舞としてもよく知られた曲になります。文化功労者にも選ばれた上方舞の武原はんの代名詞でもあり、東京で、上方舞、そして「雪」が知られるようになったのは、彼女の功績だとされます。武原はんは、徳島の花街近くに生まれ、12歳で大阪・宗右衛門町の置屋に入り、14歳で芸妓となります。20歳で著名な装丁家と結婚して上京し、“なだ万”の若女将を務めながら、上方舞の普及にも努めます。離婚後、新橋で芸妓に戻りますが、後に料亭「はん居」を赤坂に開きます。上方舞の名手として名を成しながら、自らの流派を作ることもなく、弟子をとることもなかったと聞きます。
武原はんの「雪」は、YouTubeで見ることが出来ます。同じ上方舞とは言え、祇園の井上流とは大いに異なり、独特な艶っぽさを感じさせます。座敷舞の粋と言えるのでしょう。同時に、生涯を個人舞踊家として通した武原はんの芸妓としてのプライドも感じさせます。吉原に代表される江戸の廓は、遊女中心のビッグ・ビジネスといった趣きです。対して、上方のお茶屋は、芸妓中心のお座敷遊びとして文化と芸を育ててきた面があります。成り立ちの違いと言えば、それまでですが、花魁と太夫では大違いです。落語の世界で言えば、江戸の廓噺も、上方のお茶屋噺も、本質的には大差ありませんが、風情に違いが出ているように思います。「たちぎれ線香」は、東京落語でも「たちぎれ」として演じられますが、やはり上方でしか生まれ得なかった噺なのでしょう。(写真出典:waseda.jp)