2022年10月11日火曜日

厳島観月能

人間国宝・友枝昭世氏が、毎年、舞っている厳島観月能を観ることができました。毎年10月、満月か、その前後の日を選び、厳島神社の能舞台で行われます。1996年に開始され、コロナ禍で中断されたものの、2年振り、24回目となる厳島神社の恒例行事です。マイクは使わず、照明も最低限にし、客席には、厳島神社の西回廊がそのまま使われます。あたかも室町時代の能舞台が再現されているかのようです。海の上の舞台、海の上の客席、その間を隔てるのも海というしつらえです。おぼろ月に波の音、そして波に揺れる光が舞台を照らします。能の幽玄の世界が、これほど見事に出現する機会もないのではないかと思いました。

厳島神社の能舞台は、1605年に、福島正則により創建されています。1568年、毛利元就が、厳島神社に、観世太夫を招いて、能を奉納したことがきっかけとなったようです。以降、2度の建替えを経て、現在の姿になっています。2度目の建替えは、1994年に完成していますが、台風で被災した建屋の建材を用いて再建されたそうです。通常、能舞台の下には、音響効果を高めるために、甕が設置されています。海のうえに建つ厳島神社の能舞台では、甕を置くことはできません。その代り、舞台の床板自体の反響性を高めるため、根太を三角形にする等の工夫がなされているそうです。建物全体は、水に強い松材で作られていますが、能舞台、そして音響効果を高める舞台後方の鏡板はヒノキ造りとなっています。

友枝昭世氏は、現存する三人のシテ方人間国宝の一人であり、御年82歳です。その舞や所作は、無駄がなく、力まず、実に美しいものです。舞台上の、どの瞬間も絵になる能楽師です。また、朗々と響く声にも衰えがありません。個人的には、友枝昭世氏の背中がわずかに前傾するその角度が、このうえなく理想的だと思っています。それが、美しい絵姿、舞姿の根源にあるように思います。友枝昭世氏の最大の問題は、チケットが取れないことです。友の会にも入会していますが、東京での上演は、なかなかチケットが入手できません。逆に、地方での舞台の方が取りやすい面もあります。状況が許せば、毎年、厳島神社観月能を鑑賞したいものだと思います。

厳島神社は、593年、土地の豪族が神託を受け、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀る社殿としいて建立されています。宗像三女神の一柱である市杵島姫命は、水の神とされます。島全体が神の島として神聖視されていたため、北側の浜辺に社殿が設けられたようです。厳島の名は、この市杵島姫命から来ているようです。1168年には、当時、安芸守でもあった平清盛によって、現在の姿に至る社殿が作られています。隆盛を誇った平家の氏神として栄えますが、平家滅亡後も信仰を集め続けます。その後、16世紀になり。毛利元就の厚い庇護を受けることになります。毛利元就にとって、厳島は、陶晴賢を破り、芸備防長雲石の6ヶ国を支配するきっかけとなった土地でもあります。一入ならぬ思い入れがあり、能楽を奉納したことも理解できます。

毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦いは、1555年に起こっています。陶軍25,000人に対して、毛利軍5,000人という劣勢ながら、山から毛利軍、浜では小早川軍、海は村上水軍と、三方からの奇襲をかけ、打ち破ったとされます。優れた軍略家とされる毛利元就の名を知らしめた戦いです。しかしながら、実際に、その戦場跡に立ってみると、随分と狭い土地であり、そのような大人数での戦いは考えにくいように思いました。実数はともかくとしても、現在ロープウェイが通る紅葉谷からの奇襲は、実に効果的だったものと想像できます。嵐の翌日で、陶軍は油断していたともされます。嵐のなか、奇襲の態勢を整えたことも、軍略家らしい見事な判断と言えます。なお、戦いの最中、陶軍が厳島神社に火を放ち、毛利軍が必死で消火したという逸話も残ります。(写真出典:bunka.nii.ac.jp)

マクア渓谷