2025年11月22日土曜日

野宮

少し前になりますが、観世流宗家・観世清和の舞う「野宮(ののみや)」を観ました。スキのない見事な舞台でした。囃子方も見事でしたが、なかでも笛の竹市学は特筆に値すると思いました。月に2回ほど能楽を観ていますが、今年、最も完成度の高い舞台だったように思います。金春禅竹作の野宮は、源氏物語の「賢木」の巻に基づいています。秋の嵯峨野を舞台に、六条御息所の心の揺れが描かれています。今回は、合掌留、火宅留という小書によって、一層深みを増していました。禅竹作品の特徴は、シンプルなストーリーのなかに、人間の心情が精緻に織り込まれていることだと思います。ことに野宮は大曲(おおまがり)とされ、演者には高い技量が求められます。

旅の僧が、野宮の旧跡を訪ねると、榊を持った一人の女が現れ、毎年、この日に野宮を清めに来るのだと語ります。この日は、かつて光源氏が六条御息所を野宮に訪ねてきた日であり、自分は六条御息所の亡霊だと告げて去ります。夜になり、牛車に乗って現れた亡霊は、賀茂祭での車争いのことなどを語りつつ、月の光のもとで序の舞を舞い、妄執からの救済を願います。禅竹の義父・世阿弥の改作とされる「葵の上」では、六条御息所の生霊は修験者の祈祷によって成仏して終わります。しかし、野宮は、もう少し複雑です。序の舞を舞った亡霊は、光源氏が手紙を残した柴垣に近づき、鳥居に身を寄せた後に、妄執の極致を表す破の舞を踊ります。そして、曲調は一転し、亡霊は鳥居に合掌して、「火宅の門をや出でぬらん、火宅…」と謡われて終ります。

つまり、六条御息所の亡霊は、救われたのかどうか、判然としないのです。少なくとも、法力による救済は否定され、野宮という聖域とその背後にある伊勢神宮の神力による救済が暗示されます。ただ、終局の「火宅…」は、妄執からの解脱に懐疑的な含みを残しています。禅竹の重層的な作風の背景には、時代が色濃く反映されているように思えます。世阿弥は、将軍足利義満に庇護されましたが、晩年、足利義教の時代になると弾圧され、佐渡島へ流刑になります。不遇の世阿弥を支えたのが禅竹だとされます。世は室町幕府の衰退と共に乱れ始めていました。理不尽な弾圧に苦しんだ禅竹は、神仏による救済を否定しているわけではないとしても、距離を置いた見方をしていたのかも知れません。禅竹は、応仁の乱が起こって3年目に亡くなっています。

六条御息所は東宮妃でしたが、東宮が逝去した後、光源氏と恋仲になっていました。しかし、光源氏の気持ちが遠のくと嫉妬に狂います。葵祭で光源氏の正室・葵の上と車争いをして敗れた六条御息所は、生霊となって葵の上を祟ります。名曲「葵の上」に描かれるところです。野宮は、伊勢神宮や賀茂神社の斎宮として指名された内親王が、身を清めるために一定期間を過ごした場所です。新たな斎宮が指名される都度、嵯峨野か西院に設置されていたようです。源氏物語では、六条御息所が、斎宮に指名された娘とともに、一時期、野宮に滞在します。そこへ光源氏が訪ねてくるわけですが、既に光源氏の愛を失っていると自覚した六条御息所は、娘と共に伊勢神宮へと旅立ちます。娘の斎宮期間が終わると、彼女は都に戻り、出家して亡くなります。

能楽の大曲とは、演じるために高い技量を要する曲、演じられることが希な秘曲や一子相伝の曲などを指します。能ではない能と言われる「翁」、鐘入りで有名な「道成寺」、秘曲とされる「檜垣」・「姨捨」・「関寺小町」の三老女もの、歌舞伎の連獅子の元である「石橋」、そして「野宮」などが挙げられます。なかでも野宮は、細かな感情表現が身上という難曲であり、舞、謡、囃子のすべてに熟練の技が求められるとされます。もっとも、細やかな感情表現という意味では、「松虫」、「玉鬘」、「定家」、「芭蕉」といった禅竹の他の作品にも共通するように思います。とにかく、観世清和の野宮は、禅竹の気配を感じさせる良い舞台だったと思います。能楽堂の外に出ると、最前までの酷暑が嘘のような秋の気配が漂っていました。(写真出典:the-Noh.com)

「エディントンへようこそ」