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藤戸石 |
そんな状況下、藤戸で対陣した両軍ですが、佐々木盛綱は、水軍を持つ平行盛に翻弄されます。業を煮やした佐々木盛綱は、騎馬のまま、6騎を従えて海を渡ります。騎馬による渡海など想定外だった平氏軍500名は混乱に陥り、海へと潰走します。もちろん、佐々木盛綱は、海の上を進んだのではなく、地元の漁師に聞き出したという浅瀬を渡ったわけです。平家物語の巻十に登場する話です。読み本版の平家物語に限っては、佐々木盛綱が浅瀬を教えた漁師を殺害したという話が記載されています。奇襲の秘密を守るためでした。なんともむごい話ですが、佐々木盛綱が人一倍冷酷な武士だったわけではなく、当時の戦場にあっては、常道とも言える行動だったようです。世阿弥は、この話に基づき謡曲「藤戸」を書いています。
前シテは、殺された漁師の母親です。佐々木盛綱は、恩賞としてこの地を拝領し、領地入りします。そこに漁師の母親である老婆が現れ、息子を殺された恨みをぶつけます。盛綱は、その供養を約束します。すると殺された漁師の亡霊が後シテとして現れ、殺された状況を語ります。恨みを晴らそうとする亡霊でしたが、盛綱が手厚く回向したことで成仏し、去って行きます。時代に翻弄される庶民の目線で語られる能楽です。夢幻能を生み出した世阿弥の作品の一つの特徴が、弱者や敗者の立場から語られる物語です。世阿弥は、体制批判を行い、革命を目指していたわけではありません。その狙うところは、無常観をいかに美しく表現するか、ということだったのでしょう。無常観は仏法による救済にもつながります。
世阿弥のパトロンも観客も武士が主体でした。戦乱がうち続く世にあって、武家は、常に死を意識して生きなければならなかったものと思われます。さらに末法思想が色濃く残る時代でもありました。平安貴族の”もののあわれ”もさることながら、武家社会における無常観が、日本の文化の根底として形を成していった時代とも言えそうです。世阿弥は、平家物語を題材とする作品を多く残しています。”祇園精舍の鐘の声 諸行無常の響きあり”と始まる平家物語は、無常観を語る文学です。「藤戸」は、滅び行く平氏がシテではありませんし、世阿弥の代表作というわけでもありません。ただ、時代の犠牲となった弱者の目線で語られること、回向によって救われるあたりが、実に世阿弥らしい作品だと思います。
京都の伏見にある醍醐寺は、秀吉が豪華絢爛たる“醍醐の花見”を行ったという桜の名所です。多くの国宝を有する醍醐寺ですが、その塔頭である三宝院の庭園も、国の特別史跡・特別名勝の指定を受けています。庭園の中央に配された池の正面には天下の名石とされる「藤戸岩」が置かれています。もともとは藤戸の海にあって、干満にかかわらず頭を出していることから浮洲岩とよばれていたようです。佐々木盛綱は、これを目印に渡海したと言われ、また殺した漁師を岩の下に埋めたとも言われます。将軍足利義満がこれを気に入り、金閣寺へ移します。その後、細川管領家の庭へ、信長が二条城へ、秀吉が聚楽第へと移します。江戸期に入って、現在の三宝院に置かれることになったようです。(写真出典:daigoji.or.jp)