2024年7月11日木曜日

イタリア広場

 ”イタリア広場”と言えば、欧州のどこか大きな都市に実在する広場のように思えますが、実はどこにも存在しません。ジョルジョ・デ・キリコが創造したイメージであり、1910年代に描き始めた形而上絵画のモチーフの一つです。デ・キリコは、生涯に渡り、多くのイタリア広場を描いています。1888年、ギリシャでイタリア人の両親にもとに生まれたデ・キリコが、イタリアに住んだのは父の死後のことでした。ミラノ、フィレンツェ、後にフェッラーラに住んでいます。デ・キリコは、1910年、フィレンツェのサンタ・クローチェ広場で、見慣れた景色が初めて見るかのような感覚に襲われた、と語っています。それがイタリア広場の原点となる啓示だったのでしょう。翌年、パリに移住したデ・キリコは、イタリア広場を描き始めます。

デ・キリコの形而上絵画は、突然、天から降ってきたわけではありません。デ・キリコは、1907年、ミュンヘンの美術アカデミーに入学しています。そこで、彼は、ショーペンハウエルやニーチェの哲学、あるいはアルノルト・ベックリンやマックス・クリンガーといったドイツ象徴主義絵画に深く影響されることになります。ベックリンの代表作である「死の島」は、幻想的、神話的な作品ですが、当時のドイツでは大人気だったようです。ヒトラーが好んだことでも知られます。クリンガーは、幻想的な作風で知られ、シュールリアリズムの先駆者とも言われます。いずれにしても、19世紀後半の欧州で圧倒的人気を誇った印象派へのアンチテーゼであり、そこにニーチェの哲学的要素が加わり、形而上絵画が生まれたというわけです。

印象派へのアンチテーゼとしては、ドイツ象徴主義がすべてだったわけではなく、フォービズム、キュビズム等、さらにはより広範なカウンター・カルチャーとしてのダダイズムも登場してきた時代でした。まさに前衛芸術の幕開けだったわけです。デ・キリコの形而上絵画も、そうした時代のうねりの中で生まれたと考えていいのでしょう。その時代を牽引した一人が詩人ギヨーム・アポリネールでした。絶大な影響力を持っていたというアポリネールが評価したことで、デ・キリコは世に出たと言われます。アポリネールは、前衛的な芸術家たちにデ・キリコの絵を紹介します。デ・キリコの形而上絵画に刺激された画家たちは、シュールリアリズムへと向かっていくことになります。

ただ、シュールリアリズムはじめ、前衛的な芸術運動の参加者としてデ・キリコの名前を見ることはありません。なぜなら、1919年、デ・キリコは、突如、ルネサンス絵画への復古を宣言し、前衛絵画を公然と批判しはじめたのです。デ・キリコの形而上絵画は、わずか10年弱の間に描かれたものです。1940年前後からは、バロックの影響を受けたネオバロック絵画に執着することになります。ただ、それらは評価されることなく、形而上絵画ばかりが注目されます。そのことに怒ったデ・キリコは、自己贋作と称して、過去の形而上絵画をバロック的手法を再現した絵も発表しています。彼の形而上絵画の影響力を考えれば言い過ぎになるかもしれませんが、デ・キリコは、20世紀初頭の前衛芸術に咲いた徒花(あだばな)のように思えます。

徒花は、咲いてもすぐに散る、あるいは実を結ぶことがない花を指します。徒花に魅力がないのではなく、人々を惹きつけるからこそ徒花と呼ばれるのでしょう。デ・キリコのイタリア広場は、赤い塔、古代ローマ風のアーケードといったモティーフが配され、デフォルメされた遠近法や光と影によって平面的に描かれます。時間が止まったかのような無機質な絵は、独特な静謐さを持っています。デ・キリコが好んで描いた顔のないマヌカンも同様な印象を与えます。形而上絵画は、20世紀の技術革新による繁栄がもたらす不毛を暗示しているようでもあります。大回顧展と銘打って開催されている東京都美術館の「デ・キリコ展」は、人気の形而上絵画に特化することなく、生涯の画業を展示している点が面白いと思いました。(写真出典:amazon.co.jp)

カムイチェプ