2024年5月6日月曜日

土蜘蛛

能楽の演目は、約250曲あると聞きます。ここ十年ほど、能楽堂に通っていますが、恐らく半分も観ていないと思います。有名な演目は、ほぼカバーしたと思うのですが、タイミングが合わず、観ていない人気演目もあります。その一つが「土蜘蛛」でした。今般、国立能楽堂でようやく観ることができました。土蜘蛛は、室町時代末期の作とされますが、作者は不明です。源頼光と土蜘蛛に関わる五番目物です。頼光に取り憑いた土蜘蛛を、頼光四天王が倒すという内容ですが、土蜘蛛が蜘蛛の糸を放つという派手な演出で人気の演目です。小道具として使われる蜘蛛の糸は、千筋の糸、蜘蛛の巣、なまり玉とも呼ばれ、明治時代に、金剛流のシテ方・金剛唯一が考案したとされます。

シテ方が、蜘蛛の糸を投げると、多くの細い和紙が、放物線を描いて拡散します。蜘蛛の糸は、細く長く切った和紙を、小さな鉛の針金を芯にして巻き込んであります。それを複数束にまとめて紙の封をしておきます。シテ方は、これを左右の袂に数個づつ入れておきます。演じている最中に、袂から取り出し、封を切って投げるわけです。目で確認しながら準備するわけにはいきませんので、見当をつけて、親指で封を切り、根本をしっかり親指で押さえながら、放ることになります。和紙の長さは、5間(約9m)、3間(約5.5m)があり、ちょうど舞台に収まる3間が多く使われるようです。5間になると、派手に舞台を越えて広がるようですが、投げるのには技術を要するとのことです。

深夜、病に伏せっている頼光の寝屋に僧形の者が現れます。お前の病気は私のせいだと言うなり、蜘蛛の糸を投げつけます。頼光は、枕元に置いた名刀膝丸を抜き、土蜘蛛に切りつけます。名刀膝丸は、源満仲が、筑前国から呼び寄せた刀鍛冶に鍛えさせたという刀です。満仲以降、清和源氏が代々継承したとされる名刀です。奇妙な名ですが、罪人相手に試し切りをしたところ、一気に膝まで切り下げたことから付けられたという物騒な名です。頼光は膝丸を蜘蛛切と改名しますが、その後も持主と名前を変えながら継承されていくことになります。源義経の薄緑としても知られ、また曾我兄弟の仇討ちにも使われたとされます。ちなみに、大覚寺、箱根神社等には、薄緑として所蔵されている刀が存在するようです。

そもそも古代において、土蜘蛛とは、ヤマト王権にまつろわぬ地方豪族を指したとされます。時代が下ると、土蜘蛛は、各地で妖怪として知られるようになっていきます。そのきっかけとなったのが平家物語における源頼光の逸話だとされます。能楽「土蜘蛛」も平家物語をもとに作られています。源頼光が土蜘蛛に取り憑かれた理由についても伝承があります。969年に起きた安和の変において、左大臣源高明は謀反を密告され、太宰府へ流されています。密告したのは、頼光の父・源満仲でした。もともと満仲は、土蜘蛛と結託して藤原氏を倒そうとしていましたが、一転、保身のために同族の源高明を密告するという裏切行為に及びます。怒った土蜘蛛は、子の頼光とその四天王に祟るようになったというわけです。

源頼光の最も有名な逸話と言えば、大江山の酒呑童子退治です。酒呑童子を切った刀は「童子切」という名で、現在は国宝として国立博物館に所蔵されます。酒呑童子退治の際、四天王も同行していますが、その筆頭は渡辺綱であり、後に一条戻橋で酒呑童子の家来・茨木童子を退治しています。その際に使った刀は髭切とされ、膝切と対を成す名刀です。四天王の末席に控えるのは坂田金時です。幼名は金太郎、足柄山で育ったとされています。それにしても、なぜ頼光の化物話がこれほど人気なのか、不思議です。紙や印刷が進化し、御伽草子のブームが起きたという背景があったと言えますが、頼光でなくても良かったわけです。ひょっとすると、頼光と名刀との関わりが人々の注目を集めていたからかも知れません。(写真出典:.nohgaku.or.jp)

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