ケレン(外連)とは、道具などを使った奇抜で派手な演出を指します。宙乗り、早替わり、仕掛け物などがあります。明治期以降は、演技や踊りといった芸道の本筋から外れたごまかし、邪道として扱われてきました。それを昭和の舞台に復活させたのが猿之助でした。歌舞伎界や評論家からはサーカスまがいなどと非難が殺到しますが、観客からはヤンヤの喝采を受け、歌舞伎人気を大いに盛り上げました。また、猿之助は、現代歌舞伎とも言えるスーパー歌舞伎を創作したことでも知られます。第1作は、哲学者の梅原猛が脚本を手がけた「ヤマトタケル」でした。古典とモダンを融合した派手な舞台、衣装、音楽は、世間の度肝を抜いたものです。海外からも絶賛された猿之助は、オペラの演出なども手がけ、世界的な活躍を見せました。
猿之助の派手な演出は、歌舞伎界が忘れていた芝居本来の姿への回帰だったと思います。歌舞伎の舞台は、古典芸能の高尚な鑑賞会ではありません。本質的には、客を沸かせてナンボ、という庶民的な興行の世界です。また、驚かせて終わりなら、まさにサーカスや奇術ということになりますが、想定を超えた驚きによって観客を一気に芝居の世界へと没入させる効果も大きいと思います。江戸期の歌舞伎は大人気でしたが、一方で、役者は河原者と軽蔑され、売春も当たり前という世界でした。明治になると、脱亜入欧を図る政府によって演劇改良運動が提唱されます。運動自体は、行き過ぎも揺り戻しもあって、成功とまでは言えなかったようですが、歌舞伎の近代化や地位向上には効果がありました。ただ、そこで本質が忘れられた面もあったわけです。
歌舞伎界、とりわけ団十郎を代々襲名する市川宗家を頂点とする門閥は、梨園とも呼ばれます。梨園とは、唐の玄宗皇帝が、梨を植えた庭で、自分好みの音楽や演劇を芸人に指導したことから生まれた言葉だとされます。歌舞伎界の別称として使われたのは明治期からのことだったようです。当初は、差別的な意味合いをもって使われていたようです。それが、いつの頃からか、俗世界とは隔絶された、何やら高貴な世界といった使い方に変わりました。どうにもこの使い方には違和感を覚えてしまいます。恐らく、戦後のいい加減なマスコミが誤って使い始め、一般化した言葉なのでしょう。門閥制度は悪いことばかりではないのでしょうが、新たな才能を拒むことで歌舞伎界全体を衰退させていく懸念もあります。
歌舞伎の歴史の中で、門閥外から座頭になったのは、江戸中期の初代中村仲蔵、幕末の四代目市川小團次の二人だけです。坂東玉三郎も、東京の料亭の息子であり、門閥外ですが、その芸が見込まれ、14歳で十四代目守田勘弥の芸養子になっています。人間国宝の六代目中村東蔵も門閥外の出身ですが、六代目中村歌右衛門の芸養子になっています。この芸養子、あるいは養子という仕組みが、門閥外の才能を取り込み、かつ門閥制度を保つ仕組みになっていると言えます。ちなみに、歌舞伎に変革をもたらした三代目猿之助は門閥外の才能を発掘し、育てることにも熱心だったことが知られています。なお、問題を起こした四代目猿之助は、三代目の甥です。三代目の実子は香川照之/市川中車ですが、複雑な事情で四代目を継いでいません。このあたりは実に梨園らしいとも思います。(写真:二代目市川猿翁 出典:ja.wikipedia.org)