「女殺油地獄」というタイトルは、猟奇的、扇情的な芝居を思わせます。ただ、殺された”女”は町内の油屋の内儀であり、情人などではありません。”油地獄”とは、犯行現場が油屋の店先であり、油にまみれたというだけです。シンプルな話だけに、興行上、扇情的なタイトルが必要だったのかも知れません。修羅場では、人形が油に滑る様を見事に演じます。なかなかの見せ場ですが、これも地味な話ゆえの派手な演出だったのでしょう。「女殺油地獄」の主題は、今も昔も変わらぬ子育ての難しさだと思います。河内屋徳兵衛は、油屋の番頭でしたが、主の急死によって、主の妻と結婚し、店を継がされます。主の実子・与兵衛に対しては、遠慮がちに接します。与兵衛は、甘やかされ、愛情に飢えた放蕩息子に成長し、勘当され、金欲しさに凶行に及びます。
江戸幕府開闢から百年が経ち、安定した世情は、経済活動をも活発化させます。大阪では、商人が台頭し、商人文化が形成されます。「女殺油地獄」の初段は野崎参りの場面です。野崎参りは、信心もさることながら、行楽的な要素が大きく、また遊女連れの参拝などは遊郭の隆盛をも伝え、大阪の経済力の高まりを象徴しています。一方、社会が成熟すると、面倒なことも増えていきます。商人にとっては、商売を維持・拡大することが至上命題となり、与兵衛の継父・徳兵衛も、個人の意思とは関わりなく、難しい家族状況を持つ身代を継がされます。近松が注目したのは、経済成長につれて社会がいびつになり、本来的な人間の営みが疎外されていく状況だったのでしょう。
放蕩息子による殺人という話を借りながら世相を批判し、芝居的なギミックも少ない「女殺油地獄」は、興行的に大コケし、永らくお蔵入りすることになります。当時の大阪では、跡継問題や放蕩息子は、日常よく見かけるごくありふれた問題であり、共感を得るどころか、わざわざ金を払って観るまでもない、ということだったのでしょう。「女殺油地獄」が注目されるのは、約200年後のことでした。坪内逍遙が、近松研究のなかで取り上げたことから注目されるようになり、1909年、歌舞伎で再演されます。浄瑠璃での再演は、さらに遅く、戦後の1947年だったようです。近代化、西洋化が急速に進む明治の世は、江戸の初めの経済発展期に酷似していたのかも知れません。
勘当された与兵衛は、郭通いのために200匁という金を借ります。期日内に返済できなければ、5倍の1貫を返さなければならないという阿漕な契約でした。200匁は、現在価値で4~50万円ほどとのこと。勘当前なら大した金ではなかったもの、一文無しには大金です。勘当したものの倅を気遣う両親が、与兵衛に渡してくれと向かいの油屋の内儀に託した金では足りませんでした。返済期日を迎え、あせった与兵衛は、強盗殺人に及びます。ちなみに、江戸期の通貨といえば、両・分・朱という単位がよく知られます。これは金をベースとした通貨単位です。他に銀・銭も通貨として流通しており、三貨制度がとられていました。重量をベースとする銀では貫・匁・分、銅貨では文が単位として使われていました。(写真出典:ntj.jac.go.jp)