2024年1月5日金曜日

真間の手児奈

手児奈霊神堂
市川市の北部は下総台地(北総台地)の西端にあたり、標高は20~30mあります。対して南部の平地は、かつて海でした。下総台地は、石器時代から人が住み、縄文期、弥生期には多くの集落があったようです。古墳時代には、畿内に匹敵するほど多くのクニが存在していたとされます。前方後円墳の分布、国造の任命期からして、5世紀頃からヤマト王権の体制に組み込まれたようです。6世紀には、江戸川沿いの国府台に、下総国の国府、国分寺、国分尼寺が置かれます。国府台の下には砂州が広がり、国府の港になっていたようです。人も暮らしていたわけですが、井戸水には塩分が多く含まれ、一つだけあった真水の井戸が、大変に重宝されていたといいます。真間井と呼ばれるその井戸は、今も日蓮宗の亀井院境内に残されています。

7世紀の前半のことですが、真間井に水を汲みにくる人々のなかに、手児奈(てこな)というひときわ目をひく美しい娘がいました。身なりは貧しいのですが、その上品さは隠しきれないものがあり、大評判となります。真間の若者たちはもとより、国府の役人たち、そして国府へ旅でやってきた都の人々も手児奈に夢中になり、求婚合戦がはじまります。しかし、手児奈は、いかなる申し出も断り続けます。求婚者のなかには病気になる者も現れ、求婚者同士の争いまで起きる始末でした。誰かの求婚を受ければ、他の人々を不幸にすると悩んだ手児奈は、ついに入水自殺します。手児奈の悲劇は、都でも評判となり、後に山部赤人や高橋虫麻呂が歌に詠み、万葉集にも収められています。

手児奈の出自については、真間の国造の娘という説もあります。その説によれば、手児奈は、他国へ嫁ぎますが、親元と嫁ぎ先との間に争いが起きたため、子供を連れて国元へ戻ります。とは言え、嫁いだ身ゆえ実家に入ることはできず、庵を組んで暮らします。しかし、その美貌ゆえ、言い寄る男が絶えず、これを苦にした手児奈は入水したとされます。737年、真間を訪れた行基上人は、手児奈の話を聞いて不憫に思い、その霊を供養するために求法寺を建立します。後に弘法大師空海が伽藍を整え、弘法寺(ぐほうじ)と改名します。鎌倉時代には日蓮宗傘下となり、由緒寺院の一つ本山真間山弘法寺として今に残ります。また、弘法寺の下、真間井のそばには、人々が手児奈を供養すべく建立した手児奈霊神堂が残っています。

国府があった時代、船を降りて国府へ向かう際には、砂州から砂州に渡した板橋を通っていたようです。その橋は“真間の継橋(つぎはし)”として知られ、歌枕にもなっています。また、江戸期に書かれた上田秋成の「雨月物語」にも登場します。歌川広重の「名所江戸百景」には、弘法寺から手児奈霊神堂と継橋を望む「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」という一枚がありますが、既に継橋はなく、平地には水田が広がっています。今は、手児奈霊神堂の近くに石碑が残され、小ぶりな赤い欄干が申し訳程度にあります。もちろん継橋の痕跡ではありません。このあたりは、頼朝挙兵に始まり、戦国時代には幾たびか戦場となり、幕末には戊辰戦争も戦われています。手児奈と継橋は、国府があった時代の遠い記憶としてかろうじて残ったわけです。

日本各地の国府跡には、多くの伝承が残ってるのでしょう。ただ、手児奈と継橋については、多少異なる点があります。つまり、地元で細々と伝承されたのではなく、都で評判となり、和歌に詠われるなどして記録され、次代へと継承されたわけです。国府は、規模によって大・上・中・下と区分されます。下総国は大とされています。下総国は、舟運の便の良さもあり、畿内との往来が多い国だったということでもあるのでしょう。ちなみに、国名につく前・中・後、あるいは上・下は、都から近い順に名付けられます。しかし、下総と上総は逆転しているように思えます。これは畿内からの進出が、まずは房総半島への上陸に始まったからなのだそうです。歴史を学ぶ際には、古代から主な移動・輸送手段だった舟運が、常に重要なポイントになるわけです。(写真出典:tekonareijindo.com)

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