2024年1月7日日曜日

タウン・ミーティング

Anne Mulcahy
アン・マルケイヒーが、ゼロックス社の社長に就任したのは、2001年のことでした。ゼロックス社にとって初めての女性社長であり、アメリカの大企業の女性社長が希な時代、話題になったものです。1976年に入社し、現場で営業担当として働いた後、1992年からは、役員として、人事部長、事務方トップ、国際部門のヘッドとして活躍しました。2001年、ゼロックスは、不正会計処理問題に揺れ、存続すら危ぶまれる事態に陥っていました。社長就任は、正に火中の栗を拾う状態だったわけです。社長に就任したアン・マルケイヒーが、最初にやったことは、現場を回って、全従業員とのミーティングを開くことでした。営業現場で育ってきた生え抜きらしい発想だったと思います。

NY州ロチェスター発祥のゼロックスは、世界で初めて普通紙を使う複写機を発明し、販売した会社です。長らく独占的に複写機分野をリードし、莫大な利益をあげます。1975年に独禁法違反を問われたゼロックスは、大きくシェアを落とすことにはなりましたが、アメリカを代表する企業であることに変わりはありませんでした。また、コンピュータの進化、普及において、同社のパロ・アルト研究所が果たした役割は大きなものがあります。同研究所を訪問し、グラフィック処理とマウスを見て衝撃を受けたスティーブ・ジョブズはマッキントッシュを、ビル・ゲイツはウィンドウスを開発することになります。まさにパーソナル・コンピュータ揺籃の地です。そのゼロックスが存亡の危機に陥っていたわけです。

各拠点のミーティングでは経営層を非難する声にさらされるものと、マルケイヒーは覚悟していたようです。当然です。ところが、最も多かった意見は、我々ががんばれば会社はどうなるか、というものだったと言います。歴史あるアメリカの会社は、終身雇用が多く、地域に密着し、親子代々勤める従業員も多く、その愛社精神は極めて高かったと言われます。ゼロックスもそういう会社だったわけです。もちろん、アン・マルケイヒーは、リストラも行わざるを得ませんでした。しかし、彼女が打ち出した種々の改革は、従業員の愛社精神に支えられ、ゼロックスを見事に再生させました。いわゆるプロ経営者が送り込まれていたら、ゼロックスは切り刻まれ、再生などあり得なかったと思います。

タウン・ミーティングは、ニューイングランドの伝統です。植民地時代にピューリタンの自治意識の高さが生んだ伝統であり、マサチューセッツ州やメイン州では、今も地方自治を支える仕組みとして残ります。また、形が変わっても、その伝統は広い地域に残っています。私が住んでいたNY州スカースデール村でも、各種公共サービスは、タウン・ミーティングと住民の寄附によって運営されていました。NY州北部にも、その伝統が残っているはずです。アン・マルケイヒーの従業員とのミーティングという発想は伝統に根ざしていたわけです。私も、勤めていた会社が不祥事で危うくなったおり、新社長にアン・マルケイヒーを引き合いに出しながら従業員ミーティング開催を提案しました。全ての支社で実施してくれました。効果を得られたものと信じています。

個人的な意見ですが、例えば社内で物事を徹底したい時、一方的に押し込むのではなく、対話の中で浸透させる方法がベストだと思い、実行してきました。納得感が、まるで違います。亡くなった三菱自工の益子社長から聞いた話があります。益子さんは、三菱自工が最も厳しい時、三菱商事から送り込まれた人です。フラッグシップの岡崎工場で大規模なリストラを実行せざるを得なくなった際、自ら工場に赴き、全従業員を集めて説明会を開きます。案の定、会場は怒号とヤジが飛び交います。その中で、ある大ベテランの工員が「社長さんよォ、会社の塩梅が良くなったら、俺たちを呼び戻してくれよ」と発言したのだそうです。場内は、一瞬、静まりかえり、そして拍手が起こったと聞きました。厳しい状況のなかではありますが、従業員の愛社精神が一つになった奇跡の瞬間です。(写真出典:cnbc.com)

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