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鉄砲洲稲荷の寒中水浴 |
昼と夜の時間の長さが等しくなるのが春分、秋分ということになります。つまり、冬至から3月20か21日の春分までは夜の時間の方が長いわけです。冬至から大寒までは、夜の時間が最も長い期間であり、日照時間は徐々に長くなるものの、大気は冷やされる日々が続くことになります。大気の冷たさが累積されるのかも知れません。これが、冬至ではなく、大寒が最も寒くなる理屈ということになります。ただ、理解はできても、どうもピンとこないわけです。私は別としても、動植物は、日照時間の変化を確実に把握しているようです。それが証拠に、大寒の頃から、梅のつぼみがふくらみ始めます。長い歴史を持つ暦は、そうした動植物の変化も捉えられています。と言うか、そのための暦ということなのでしょう。
15日単位の二十四節気を、さらに初候、二候、三候と5日毎に区分したものが七十二候です。大寒における七十二候は、款冬華 水沢腹堅 鶏始乳となります。款冬華とはふきのとうが蕾を出す、水沢腹堅は沢に氷が厚くはる、鶏始乳は鶏が卵を産み始める頃とされています。実に見事に自然の変化を捉えていると思います。季節の変化を経験的に捉えただけの原始的な暦は、世界各地に存在していたようです。月の満ち欠けに基づく太陰暦は、メソポタミアや中国で生まれました。しかし、地球と月の公転のズレから、月の周期では1ヶ月が29.5日となり、1年は345日となります。閏月を設定して、そのズレを修正したものが太陰太陽暦であり、長らく暦の基本となりました。
太陰太陽暦は、中国から朝鮮半島を経て日本に渡来しました。日本書紀には、553年、百済から暦博士を招こうとしたという記述があるようです。そして604年には、日本初の暦が作られています。稲作が伝来してから、1,500年間、日本は、暦なしに稲作を行っていたわけです。3世紀末の魏志倭人伝には、倭人は、その俗正歳四節を知らず.ただ春耕秋収をはかり年紀となす、という記述があるようです。太陰太陽暦は持っていなくても、縄文時代から、夏至、冬至等、太陽の動きに関する知識があったことは分かっています。原始的な暦の類いがあったとすれば、太陽の動きに準拠していたはずです。農耕が太陽を基準とすることは理解できます。にも関わらず、太陰暦が月を基準としたのは、視覚的な分かりやすさゆえなのかも知れません。
大寒は、二十四節季の最後の節季であり、続く立春が新たな年の始まりとなります。大寒の最終日が節分になります。もともと節分は、季節を分けるという意味で、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことでした。江戸期以降は、もっぱら立春の前日を指します。節分の豆まき以外にも、大寒には様々な習わしがあります。小寒、大寒をあわせて寒、あるいは寒中と呼びます。寒中見舞い、寒稽古、寒中水泳などは、この期間に行われます。大寒の日に生まれた大寒たまごは、縁起物というだけでなく栄養価も高いとして珍重されます。酒や醤油の寒仕込みは、雑菌が繁殖しにくいこの季節に仕込むことで、じっくり熟成されて美味になるとされます。また、大寒の朝に汲んだ水を寒の水と呼びます。寒の水でついた餅はかびないとも言われます。寒仕込みと同様、雑菌が少ないという意味でしょうが、多少、眉唾です。(写真出典:afpbb.com)