2020年9月18日金曜日

浅草の賑わい

アサクサノリが絶滅危惧種だと聞き、驚きました。学名だったことを知りませんでした。そもそも海辺でもない浅草で、なぜ浅草海苔なのかも不思議でした。もともと蔵前から浅草にかけては、入江に近い微高地であり、自生する海苔が食べられていたようです。江戸初期からは、葛西で養殖した海苔が、江戸随一の繁華街である浅草で、「浅草海苔」として販売されていたようです。

浅草は、低地帯のなかの微高地だったため、古くから集落が存在したようです。628年、兄弟の漁師が、墨田川で網にかかった観音像を引き上げます。金龍山浅草寺の縁起です。高さ5.5cmと伝わる観音像は今も浅草寺のご本尊ですが、秘仏であるため、実態は不明とのこと。浅草は浅草寺の門前町として栄えました。江戸期になると、微高地であり、水運の要所でもあった浅草に米蔵が建てられ、いわば江戸の食糧基地として、多くの役人や商人が集まります。蔵前という地名が往時を伝えます。

商人のなかに札差という業種がありました。侍が持ち込む給金の米を現金化し、それを米屋に卸す商売ですが、買いと売り、両方でサヤを抜き、かつ金貸もやって大儲けしたようです。この札差たちが豪遊したことで浅草は大いに賑わいます。歓楽街浅草の始まりです。さらに江戸の大火の都度、当時最大の繁華街だった日本橋から吉原遊郭、芝居小屋等が順次浅草へと移り、浅草は、江戸随一の繁華街になっていきます。

以降も、日本初の遊園地である花やしき、当時日本一の高さを誇った凌雲閣等もオープンし、また各種興行のメッカでもあり、浅草は総合アミューズメント・シティとして発展を続けます。これほど総合的な歓楽街は世界でも類を見ないと思います。60年代からTVの影響でさびれた時期もありましたが、墨田川花火大会の再開等をきっかけに80年代には復活、近年は、東京一の観光地として海外からの観光客で賑わいます。

ブラタモリ風に言えば、微高地、観音様、水運の要所、米蔵と、浅草の賑わいは墨田川がもたらした、ということになるのでしょう。(写真出典:inshokuten.com)

マクア渓谷