2020年9月25日金曜日

毘沙門天

 毘沙門天は、インド神話に由来する仏神であり、仏が住む須弥山を守る四天王のうち、北方の守護を担います。中国で軍神としての性格も帯び、日本へ伝わりました。自身、毘沙門天の生まれ変わりと称した上杉謙信の旗印は毘沙門天の「毘」でした。戦国時代、最強と言われたのは武田軍と上杉軍だったそうです。稀代の戦さ上手である謙信は、70戦負け無し。無論、負け無しも驚異ですが、15歳で初陣、48歳で没するまでに70戦、ほぼ年に2回という戦さの多さが謙信の生涯を雄弁に語ります。

謙信は、越後守護代の長尾家に生まれました。下克上の時代にあって、越後は内乱状態。越後守護である上杉家を牛耳る長尾家も、一族の争いが絶えず、謙信も若くして戦さと政争の渦中に巻き込まれます。戦さと統率の才を認められた謙信は、18歳で守護代、20歳で守護になり、21歳のおり、越後統一を果たします。ただ、統一は不安定で、その後も反乱は続きます。

越後統一以降、その武力が認められた謙信のもとには近隣他国から救援要請が寄せられます。義の人謙信は、その都度出兵します。長く続くことになる武田、北条との戦いも、要請に基づく出兵から始まっています。ついには関東管領にも就いた謙信は、17回も関東出兵を行います。ただ、領土的野心は一切なく、国を出ては戦い、勝っては国に戻ることを繰り返します。越後を脅かす一向一揆とも血みどろの戦いを繰り広げますが、領土的利害を直接原因とする戦いは例外的と言えます。

武力からすれば、上洛して天下を取ることも可能だったかも知れません。しかし、謙信の最大関心事は越後の安定だったのでしょう。救援要請を受ける形とは言え、将来、越後を脅かしかねない勢力を叩き続けたようにも思えます。関東管領を受けたのも、越後国内への影響力を増すためとも考えられます。また、反乱を誘発しかねない越後国内の武力を、可能な限り国外で戦わせ、越後の安定を狙ったのではないでしょうか。

上杉軍の強さは白兵戦にこそあったと言われます。戦さの多さが、歴戦の将兵を育てたのでしょう。当時の戦さでは当たり前だった略奪が、将兵の動機になっていた面も否定できません。加えて、越後を守るという謙信の基本スタンスが、各々の家族と土地を守るという将兵の動機と重なっていたとも言えそうです。自ら北面の守護神を任じた謙信の強さは、北面の将兵たちと利害が一致していたことにあったのかも知れません。旗印の「毘」には深い意味があったわけです。組織のニーズと個人のニーズが一致した組織ほど強いものはありません。(写真出典:zassou.net)

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