2020年9月1日火曜日

輪違屋

輪違屋(わちがいや)は、京都の島原にあって、今も営業を続ける唯一のお茶屋兼置屋です。壬生浪士芹沢鴨が島原角屋で暗殺された際に、逃げ延びた芸妓の一人が輪違屋糸里。浅田次郎が小説にし、有名になりました。島原は、足利義満によって許可された日本初の花街です。幾度かの移転を経て、現在の島原に落ち着いたようです。当時は、京の西はずれ。田んぼのなかに塀を回し、今も残る東大門が作られました。

なにせ立地が悪く、祇園町等、今に続く五花街に客が流れ、大火も重なり、廃れていったようです。客足が遠のいた大きな理由が、格式の高さ。島原の芸妓の最高ランクは太夫(たゆう)、こったいとも呼ばれます。公家をはじめとする上流階級専属の芸妓であり、宮中から正五位という位を授かり、御所にも出入りしたとされます。姿形の美しさ、性格の良さ、頭の良さに加え、琴、三味線、胡弓、笙、地唄、舞踊については家元クラス、書、茶、花、香、和歌、囲碁といった教養にも高いレベルが求められたようです。

そんな立派な人は滅多にいないと思うのですが、没落した公家の娘たちが太夫になったと聞き、納得しました。かつて公家は、娘たちに最高級の教育を施し、御所に入れ、あわよくば帝の側室をねらったものだそうです。何から何まで完璧にこなす芸妓など、一朝一夕に育てられるものではありません。太夫には、お金と時間が随分かかっていたわけです。ちなみに、江戸吉原の花魁は、形だけ太夫をまねたもので、雲泥の差があったようです。

縁あって、一度、輪違屋に上がらせていただきました、輪違屋は、元禄の創業。江戸末期に再建したという立派な建物に入ると、まずは館内をツアーし、二階の立派なお座敷に通されます。しばらく喉を湿らせていると、いよいよ太夫の登場。大きな和蝋燭に火が灯り、電気は消されます。まるで江戸時代にワープしたような感覚に陥ります。太夫お成り、の声とともに、禿(かむろ)と呼ばれる二人の子供に先導され、付き人や地方数名を引き連れた太夫が登場します。

大きな髷に鼈甲の簪等の髪飾り、豪華な刺繍を施した厚い打掛。総重量は40キロを超すといいます。踊り、和楽器の演奏等を披露いただき、酌をしてもらいました。太夫の話術も見事でしたが、かつてコシノジュンコさんに連れられ、パリで道行(みちゆき)をしたという話にはたまげました。いずれにしても、京都島原、幽玄の一夜でした。
写真出典:matome.never.jp

マクア渓谷