2020年9月12日土曜日

マリオと魔術師

トマス・マンの「マリオと魔術師」(1930)は、台頭するファシズムに警鐘を鳴らすため、ファシズムの心理学を描いた作品と言われます。イタリアのリゾートに滞在するドイツ人家族が感じる町の違和感と、そこで体験した不思議な魔術師のショーの顛末が描かれます。当時、イタリアは、ムッソリーニの独裁体制に入っており、ティレニア海に面したビーチ・リゾートにもファシズムの空気が漂っています。直接的にファッショと向き合うビーチでの嫌な出来事があっても、家族は「何となく」滞在を続けます。

家族は、町にやってきた魔術師のショーにでかけます。30分遅れて登場した異様な風体の魔術師は、高圧的な態度と話し方で観客を圧倒し、催眠術を使いながら、鞭を鳴らし、観客を支配していきます。身体障害が故か、ゆがんだ支配欲は、反発をも巧みに誘導し、支配を強めます。ローマから来たと思しき青年紳士が、絶対に支配されないぞ、と魔術師に挑みますが、破れます。「彼の闘争の姿勢が否定的であるが故に、敗北した。」

何かを欲しないということと、自己の意思を持たないことは、非常に近いことだ、とトマス・マンは書きます。家族は嫌なムードが漂う町を「何となく」離れません。気色悪いショーを「何となく」離れられません。受動的な大衆の無作為こそがファシズムを育てる温床であり、大衆を受動的にさせて誘導することがファシズムの心理学だということなのでしょう。ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」にも通じるものがあります。

ウェイターのマリオは、催眠術にかかり、秘めた恋を曝され、魔術師を憧れの人と錯覚してキスします。侮辱され、凌辱されたマリオは、魔術師を撃ち殺します。知識階級のローマの青年は、反発を御され破れます。民衆の代表たるマリオは、凌辱に対して直情的に引き金を引きます。ムッソリーニの最後を予感させる、とも言われますが、むしろ、大衆が早く目を覚まして欲しいと願うトマス・マンの期待であり、淡い期待しか持てなかったほどファシズムの勢いが強かった時代とも言えます。

今、世界には、独裁的なリーダーが多く見られます。独裁は、国民に求められたかのような体裁を採りつつ、確実にファッショ化していきます。マリオの銃弾に匹敵するものが必要な時代のように思えます。
トマス・マン  写真出典:en.wikipedia.org

マクア渓谷