監督:パオロ・タヴィアーニ 原題:Leonora Addio 2022年イタリア
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これは、もう映画ではなく、映像化された辞世の句と理解すべきだと思います。映画の冒頭、イタリアの劇作家ルイジ・ピランデッロのノーベル賞授賞式の映像が映し出され、名誉あるノーベル賞も、寂寥感を和らげることはない、というピランデッロの独白が重なります。人生の末日における寂寥感は、誰もが避けられない地獄なのでしょう。兄弟で映画を撮ってきたパオロ・タヴィアーニは、92歳となり、兄ヴィットリオを失いました。タヴィアーニにとって、ピランデッロの独白は自身の声なのでしょう。通常の映画とは大いに異なる本作は、評価が分かれると思います。残日の頃を迎えた私にとっては、とても印象的に残る作品でした。映画のプロットは、ルイジ・ピランデッロの遺灰を故郷シチリアに移送するというものです。ピランデッロは、ノーベル賞を受賞した2年後の1936年、ローマで亡くなっています。故郷シチリアへの埋葬を望んだピランデッロでしたが、その遺灰はローマに留め置かれます。遺灰がシチリアに戻ったのは戦争が終わってからだったようです。それは事実ですが、移送に関わるエピソードは、パオロ・タヴィアーニの創作です。この映画には、多くのメタファーが埋め込まれています。死の床にあるピランデッロと子供たちのシーンは、キューブリックの「2001年宇宙の旅」へのオマージュと思われ、遺灰が通るアッピア街道、シチリアまでの鉄路、そして制作に15年を要した墓石等は、時の永遠と人生の儚さを語ります。
また、ファシズムの時代、進駐してきたアメリカ軍、混乱する戦後政治、イタリア式官僚主義、民衆の無知と貧しさ、といった20世紀イタリアの実相が語られています。それは、パオロ・タヴィアーニの生きてきた時代そのものであり、人生を振り返っているのでしょう。シチリアまでの長い貨物列車の旅は、戦後の混乱と人生の旅路を象徴しています。そのなかで登場する新婚のシチリア青年とアルザス娘だけは、変わらぬ人間の営みの素晴らしさと欧州の将来への希望を思わせます。白黒で展開される映像は、遺灰の一部がシチリアの海にまかれる瞬間、美しいカラー映像に切り替わります。死を自然への回帰として賛美しているかのようです。これがパオロ・タヴィアーニが行き着いた死の受け入れ方なのでしょう。
なんとも不思議なのは、巻末に登場する映像です。ピランデッロが死の20日前に書いたという短編を映像化したものです。NYのブルックリンを舞台に、シチリア移民の少年が少女を殺害する話です。父に無理やり移民させられた少年のやるせなさが爆発した事件のように思えますが、動機を問われた少年は”Purpose”としか答えません。目的という意味ではなく、天啓という意味なのでしょう。確かに、犯行に使われた釘は、偶然、トラックから落ちたものでした。少年は、老境に至るまで、少女の墓にお参りを続けます。一神教徒以外には、”Purpose”は分かりにくい考え方です。人生の終わりにピランデッロが書き、同じく末日にあるパオロ・タヴィアーニが映像化する意味は、天啓の受容ということなのでしょうか。
映画は、美しい白黒映像、端正な映画文法、そしてニコラ・ピオヴァーニの印象的な音楽で構成されます。それでも、なお、この作品を映画として評価することは難しいと思います。もっと言えば、日の陰りを意識し始めた老人でなければ、この映画を理解することは難しいとも言えます。原題は「Leonora Addio(さよならレオノーラ)」です。ピランデッロが、1910年に発表した短編のタイトルだそうです。奔放な娘時代を過ごした女性が、束縛の多い結婚生活に入ります。ある日、子供たちの前で、昔を懐かしんでジャコモ・マイアベーアのオペラ「ユグノー教徒」のアリア"Leonora, addio!"を熱唱し、そのまま息絶えます。パオロ・タヴィアーニにとっては、映画を撮り続けて死ぬ、ということの比喩なのかも知れません。(写真:イタリア公開時のポスター 出典:imdb.com)