アメリカでは「American Revolutionary War(アメリカ革命戦争)」と呼ばれる独立戦争は、1775年、ボストン近郊のレキシントンとコンコードの戦いに始まります。4月19日早朝、レキシントンで民兵と英国兵が対峙するなか、偶発的な発砲によって小競合いが発生します。数時間後、コンコードのノース・ブリッジを挟んで両軍主力が交戦を開始します。再現されたノース・ブリッジを見たことがありますが、決して大きな川でも大きな橋でもありません。本格的な戦闘は、ここに開始されたわけですが、植民地と英国との衝突は、1770年の「Boston Massacre(ボストン大虐殺)」に始まります。事件は、ユニオン・オイスター・ハウス近くの旧州議会場の前で起こっています。
事の端緒は、少年が英国兵をからかったことでした。英国兵8名は、集まってきた数百人の市民に取り囲まれます。恐怖にかられた英国兵が、命令なしに発砲し、結果、5名の市民が亡くなりました。大虐殺とは、当時、急進派が扇情的に使った言葉ですが、現在まで使われています。背景には、ダウンゼンド諸法による英国の植民地支配の強化、それに対する植民地側の猛反発がありました。植民地の抵抗によって、同法は概ね撤廃されますが、1773年には東インド会社による紅茶の独占販売を目論む茶法が定められます。増税ではないものの、紅茶業者は大打撃を受けます。植民地の権利を無視する英国政府への反撥が強まり、"No taxation without representation(代表なくして課税なし)"というスローガンが広まります。
1773年12月、茶法に反対する集会が、これまたユニオン・オイスター・ハウスにほど近いオールド・サウス集会場で行われます。激高した参加者の一部が近くの港に停泊していた英国船を襲撃、積み荷の茶箱を海に捨てるという挙に出ます。いわゆる「The Boston Tea Party(ボストン茶会事件)」です。これに態度を硬化させた英国は植民地政府に介入する法律を制定し、植民地側も13の植民地州が大同団結して対抗します。そしてレキシントン・コンコードの戦いへとつながるわけです。独立戦争と言えば、武力で制圧された国や民族が主権を回復するための闘争というイメージがあります。アメリカ独立戦争は、十分な経済力を持つにいたった植民地とあくまでも植民地支配にこだわった宗主国との戦いです。つまり、植民地の市民が、自らの権利を獲得した戦いであり、革命と呼ぶに相応しいのでしょう。
今年は、茶会事件から、250周年に当たります。様々なイベントも予定されているようです。そして2026年、アメリカは建国250年という節目を迎えます。それを先頭に立って祝うのは、次期大統領ということになります。次期大統領には、建国の精神を忘れない人物に就任いただきたいものだと思います。余談ですが、アメリカには、議会に文句がある場合、国民が紅茶を議事堂に送りつける慣習があります。今も続いているかどうかは分かりませんが、私のNY勤務中には、議員報酬の引き上げが議論されると、全米からティー・バッグが山ほど送られていました。また、小さな政府を求めて起こった「ティー・パーティ運動」は、2010年の中間選挙における共和党の躍進を実現しました。言うまでもなく、これは茶会事件にちなんで命名されています。ちなみに、英国領だったアメリカが、紅茶ではなく、コーヒー好きの国になったきっかけも茶会事件にあるとされます。(写真:Union Oyster House 出典:inbounddestinations.com)