1913年には、アメリカ海軍が下着としてTシャツを採用します。安くて、着心地が良く、洗濯も容易だったことが評価されたようです。兵隊たちは、作業時に、制服を脱いでTシャツ姿で働くようになります。ほどなくTシャツは、全米の労働者たちの間に広がっていきます。1932年には、アメリカン・フットボール選手の下着として、クルー・ネックTシャツが開発され、海軍がこれを採用したことから、以降、クルー(船員)・ネックと呼ばれます。現在のように、Tシャツがアウター・ウェアとして認識されるようになったきっかけは、1951年公開の映画「欲望という名の電車」だと言われます。マーロン・ブランドのTシャツ姿が評判となり、若者たちがこぞって真似をしたからです。
1960年代になると、プリントTシャツの時代が始まります。プリントTシャツ自体は、40年代からあったようです。ただ、旧体制を批判するカウンター・カルチャーの時代にあって、Tシャツは、単なるファッションから、主義主張を表明するコミュニケーション・ツールへと変化を遂げました。その動きが、アウターとしてのTシャツの一般化を決定づけたと思われます。いまやTシャツは、アパレル産業の大きな部分を占め、1着数十万円という超高級ブランド品まで存在します。私も、ここ10年ばかり、Tシャツを着るようになりました。ただ、購入する際には、いまだに着心地以外の判断基準がよく分かりません。
下着だったものが、時代とともに表に出てきてアウター化するという変化は興味深いと思います。その機能性の高さゆえ、ということは理解できますが、もう少し異なる背景もあるように思います。日本でも、着物の標準である小袖は、そもそも下着でした。平安期の貴族の下着として着用されていたものが、平民の日常着となり、鎌倉時代には一般的なアウターへと変化したようです。つまり、下着のアウター化という傾向は、権力構造の変化、あるいは民主化の動きと深く関わっているということなのでしょう。権力を持つ階層がタブーと規定したものが、タブーではなくなっていく構図と言えます。
家族でハワイへ行ったときのことです。カラカウア通りを散歩している時、小学校へ入りたてだった長女は、自分が通うフォックスメドー小学校のTシャツを着ていました。すると、通りを歩いてきた3人組の若者たちが大騒ぎを始めます。ワオ、俺たちもフォックスメドーの卒業生だぜ、フォックスメドー、イェー、スカースデール、イェー、というわけです。アメリカ人が、観光地で、わざわざ地元や母校のTシャツを着ている姿をよく見かけたものです。単なる地元愛だけではなく、プライドやアイデンティティを失わないように着ていたのかも知れません。Tシャツが持つことになった多様な意味合いに驚きました。(写真:「欲望という名の電車」のマーロン・ブランド 出典:rollingstone.com)