盛岡藩は、広大な領地を持つものの、土地は山がちであり、表高は10万石、内高20万石と言われます。かつ寒冷な気候は稲作には適しておらず、多くの飢饉と一揆が発生します。特に沿岸部では、夏場に”やませ”という冷たい東風が吹き、大飢饉が頻発しています。国内では、最も遅くまで、粟・稗といった雑穀を主食にしていたとも聞きます。一方、北部は、古来、駿馬の産地として知られ、平安期には一戸から九戸までの牧場体制が整備されています。また、奈良時代に掘削が始まったとされる尾去沢鉱山をはじめ、金・銀・銅・砂鉄等の鉱物資源にも恵まれていました。ちなみに尾去沢は、現在、秋田県内にありますが、もともとは盛岡藩領でした。戊辰戦争の際、新政府側の秋田藩が奥州越列藩同盟側の盛岡藩を破り、入手しています。
その鉱物資源を使って生まれたのが南部鉄器です。安土桃山時代の末期、第2代藩主となった南部重直は茶の湯に造詣が深く、京都から釜師、甲州から鋳物師を呼び寄せ、地元の砂鉄を使った茶釜を作り始めます。実は、岩手県名産の南部鉄器の生産拠点は2カ所あります。南部氏の城下町である盛岡とその近郊、そして旧仙台藩領であった県南の水沢です。水沢の鉄器の歴史は盛岡よりも古く、平安末期、藤原清衡が、近江から鋳物師を招いて製造が始まったようです。豊富な砂鉄、そして北上川がもたらす砂や泥が良質な鉄器を生みました。室町期には、京都から移住した鋳物師たちが産業化したとされます。江戸期には、仙台藩の庇護を受け、幕末には大砲も製造していたようです。
不思議なのは、もともと水沢鋳物と呼ばれていた水沢の鉄器が、今は南部鉄器と呼ばれていることです。幕藩体制の解体を目的とする廃藩置県のおり、盛岡藩北部は青森県に編入され、水沢のある仙台藩北部は岩手県に編入されました。奇しくも、陸奥の2大鉄器である南部鉄器と水沢鋳物が一つの県に存在することになったわけです。両者とも、明治・大正期に隆盛を極めますが、戦時中は製造が制限され、戦後はアルミ製品に押され、苦しい時期が続きます。1974年、南部鉄器と水沢鋳物は、まとめて南部鉄器として経済産業大臣指定の日本の伝統工芸品に選ばれます。どうやら1950年代中期頃から、両者とも南部鉄器と呼ばれるようになっていたようです。
今でも、水沢の人たちは、藩も言葉も異なる盛岡に違和感を持っていると聞きます。とは言え、鉄器冬の時代を乗り切るために、あえてブランドを統一し、共にがんばろうということになったのでしょう。ただ、現在でも、盛岡には南部鉄器協同組合、水沢には水沢鋳物工業協同組合が独立的に存在します。ブランド統一後も、南部鉄器より古い歴史を誇る水沢鋳物は、そのプライドを失っていないわけです。東北新幹線の水沢江刺駅前には、巨大な鉄瓶のモニュメントが設置されています。日本一のサイズを誇ると聞きます。南部鉄器は、いまや伝統工芸品として世界に知られるようになりましたが、かつて大砲まで鋳造した水沢鋳物の伝統を残そうとしているのでしょう。余談ですが、私は、風鈴と言えば、南部鉄器に限ると思っています。余韻が長く澄んだ高い音色は、禅にも通じる奥深さがあると思っています。(写真出典:amazon.co.jp)