2023年7月25日火曜日

「サントメール」

監督: アリス・ディオップ   原題:Saint Omer   2022年フランス

☆☆☆+

2022年のヴェネツィア国際映画祭で、銀獅子賞および新人監督賞を受賞した話題作です。セネガル移民2世のフランス人であるアリス・ディオップ監督は、ドキュメンタリー作家として注目を集めていたようですが、長編ドラマとしては本作が初監督作品となります。実際に起きた若い母親による乳幼児殺害事件の裁判がモティーフになっています。法廷シーンの台詞は、法廷記録をほぼ忠実に再現しているとのこと。監督も、実際に裁判を傍聴したようです。事件は、2013年、フランス北部で起きました。高齢のフランス人彫刻家と同棲するセネガル人留学生が、人知れず出産して育てた1歳半の子供を砂浜に放置し、殺害したという事件です。留学生は、法廷で、なぜこうなったのか分からないと証言します。

アプローチは、セミ・ドキュメンタリー的ですが、緊張感は優れたドラマのそれだと思えます。その理由は三つあると思います。一つは、監督自身が反映された傍聴者というサブ・フレームの設定です。セネガル移民2世の大学教授は、妊娠4ヶ月で、母になることへの不安、そして母親への複雑な思いを抱えています。二つ目は、見事なキャスティングと存在感ある演技です。特に、裁かれる留学生を演じたガスラジー・マランダの存在感、そして困惑に正対する姿が印象的でした。また、傍聴する大学教授役のカイジ・カガメが演じる漠然たる不安感が、本作を見事なドラマに仕立てている面があります。他の出演者もほとんど女性ですが、抑え気味の演技が実存感を高めています。

三つ目は、よく練られた脚本です。裁判記録に基づく台詞もさることながら、あえて結論めいた展開を避け、判断を観客個々に委ねるというシナリオは、テーマの訴求に極めて有効だったと思います。特に、法廷映画にも関わらず判決を一切伝えていないことが、本作のテーマを象徴しています。実際の裁判では、精神科医が妄想症との診断を下しながらも、判断能力ありとし、懲役20年と精神病の治療を命じる判決が下されています。法の世界では裁かれて当然としても、果たして、封建的な家庭に育ち、差別的環境のなかで孤独を募らせた被告の母性を裁くことはできるのか、ということなのでしょう。しかも、それは単なる同情や差別批判ではなく、母性の複雑性そのものを問うていると考えます。

弁護人による印象的な最終弁論は、実際の裁判記録とは異なるようですが、本作のテーマに関する解題とも言える内容になっています。やや語りすぎているようにも思えますが、テーマの複雑性からしてやむを得なかったのかも知れません。母性の複雑性を伝えるキマイラの例えは興味深いものがあります。キマイラは、ギリシャ神話に登場します。頭はライオン、胴は山羊で頭部まで備え、尻尾は蛇、そして口から火を吹くという怪物です。中世のキリスト教では、悪魔や淫乱の象徴とされ、また、その複合性ゆえ女性の象徴と捉えることもあったようです。生物学のキメラ、つまり同一個体のなかに遺伝子型の異なる組織が存在する現象の語源でもあります。母と子は、臍帯を通じてキメラを生じるともされます。

事件は、日本なら育児ノイローゼという言葉で括られることになるのでしょう。育児ノイローゼは、ストレスやホルモンの乱れが原因とされます。ただ、本作が語る母性と孤独を思えば、それほど単純なものではなく、より奥深いものがあるように思えます。母子の一体感が存在する一方で、途切れることのない人類のリンクのなかに置かれる不安や孤独感、またそれゆえに生じる自分の母親への複雑な思い等々、単純には言い表せないものがあるのでしょう。その感覚は、男性には理解不能なのかもしれません。ただ、監督のシャープな演出が問いかけるものは深いとは思いました。セリーヌ・シアマ監督が、本作を「ジャンヌ・ディエルマン」に匹敵するとまで評価していますが、分かるような気がします。(写真出典:cinemarche.net)

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