ガマの油は、傷によく効く軟膏として知られ、その歴史は大阪冬の陣に始まります。徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職、光誉上人が持参した軟膏が、刀傷によく効くと評判をとりました。ガマの油という名称は、上人の顔がガマガエルに似ていたからも、ガマガエルから抽出される薬効のある成分が入っていたからとも言われます。江戸時代に売られていたガマの油の成分は、よく分かっていないようですが、戦前に売られていたものには、センソというガマガエル由来の成分が入っていたようです。
18世紀中葉、筑波山麓の新治村永井に在する兵助という青年が、ガマの油を江戸で売り始め、大成功します。それを真似た的屋たちが大道で口上販売し、全国に広まったようです。四六のガマが、鏡に映る己の醜い姿を見て、ダラーリ、ダラリと脂汗を出す。それを集めて作ったのがガマの油。ここで取りいだしたるは、当家に伝わる天下の名刀。一枚が二枚、二枚が四枚と紙を切り、切れ味を見せたうえで、自らの腕を切り、血を流します。その刀傷にガマの油を塗れば、タバコ一服吸わぬま間にピタリと止まる、血止めの薬にござりまする、とくるわけです。
筑波山だけに生息するという前足の指が四本、後ろ足の指が六本という四六のガマは存在しません。天下の名刀は、切先だけ刃物で、中間で切れば赤い液が出るという仕掛け物。的屋の見事な工夫です。的屋も様々あり、これは香具師(やし)の仕事なのでしょう。香具師は、曲芸等で客寄せをして、薬や香具を売っていました。的屋の歴史は古く、平安以前から寺院が修繕等のために広く寄付を求める普請の手段として活用されてきたようです。つまり縁日等のおり、的屋が物販や見世物であげた売上の一部を寺が寄付として受け取る仕組みです。場所の使用料を寺銭とも言いますが、その語源です。
江戸期、博徒と的屋は、無宿人とされ、やくざと見なされていました。ご法度の賭博を生業とする博徒と、怪しげな一面はあるにしても稼業を営む的屋が同じ扱いとはやや意外な印象があります。ただ、戦後の闇市を仕切ったのが、博徒、的屋、愚連隊の一家であり、しばしば抗争も起きます。これらが暴力団と総称され、今に至るわけです。日本で、最も有名な的屋は、通称フーテンの寅こと車寅次郎ということになります。映画「男はつらいよ」の主題歌に挿入される口上は、各地の親分衆に一宿一飯の恩義にあずかる際の口上です。これがいわば身分証明であり、間違えると叩き出されたものだそうです。(写真出典:ganref.jp)