2020年12月16日水曜日

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ

「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」は、1974年に発表されたジョン・ル・カレの代表作です。ル・カレの作品は全て読んでいますが、最も熱中したのが、本作に始まるスマイリー三部作です。シリーズは、本作以降、「スクールボーイ閣下」(1977)、「スマイリーと仲間たち」(1979)と続きます。これに処女作「死者にかかってきた電話」(1961)と「高貴なる殺人」(1962)を加え、スマイリー五部作と呼ぶこともあるようです。イアン・フレミングのジェームズ・ボンドが、荒唐無稽系スパイもののキングであるように、さえない中年のイギリス情報部員ジョージ・スマイリーは、シリアス系エスピオナージュ界のまごうことなきキングです。

この風変りなタイトルは、マザー・グースに収録された子供たちの遊び唄「Tinker Tailor Soldier  Sailor 」からつけられ、作中、コードネームとして使われています。歌は、Rich Man Poor Man Beggar Man Thief と続きます。一種の占い唄のようなものだそうですが、なかなか意味深なタイトルでもあります。ル・カレの小説は、緻密に構成されたプロットもさることながら、丁寧な人物描写が特徴であり、エスピオナージュの世界を変えた、あるいは文学の領域にまで高めたとも言われます。憂鬱で皮肉な業界における愛や友情が、抑えた表現のなかから浮かびあがります。極めて上質なエンターテイメントであり、ル・カレを読んでいる時間は、実に幸せな時間です。

ジョン・ル・カレは、オックスフォード大卒業後、イートン校で教鞭をとり、その後、国内情報機関のMI5、そして国際情報機関MI6に勤務します。時は、まさに東西冷戦が危機的状況にまで進み、スパイたちが暗躍した時代です。ル・カレは、1961年、29歳のおり、「死者にかかってきた電話」でデビューします。そして、63年に発表した3作目「寒い国から帰ってきたスパイ」が高い評価を得て、映画化もされます。非情な政治の世界に翻弄される個人という構図、複雑に構成されるプロット、精緻な人物描写といったル・カレ作品の特徴が出そろっていました。その後、「鏡の国の戦争」、「ドイツの小さな町」が出版され、スマイリー三部作へと続きます。

三部作の後も質の高い作品が続きますが、85年、ソ連のゴルバチョフがペレストロイカを打ち出し、89年、ベルリンの壁が崩壊すると、エスピオナージュの世界は、リアリティを失っていきます。情報ビジネスの舞台は、東西冷戦から、イスラム系のテロ、あるいは南米の麻薬へと移っていきます。ル・カレの作品は、既に「リトル・ドラマー・ガール」(1983)から、多様な舞台や表現へと展開し、冷戦は回想的に扱われます。最もヒットしたのは、映画でも成功した「ナイロビの蜂」なのでしょう。ル・カレの作品は、多く映画化されていますが、ほとんどが原作の持つ味わいを再現できていません。数少ない成功例が、「ナイロビの蜂」、ティンカー、テイラー…を原作とする「裏切りのサーカス」、「誰よりも狙われた男」あたりではないでしょうか。

ル・カレの作品は、冒頭から独特の憂鬱な空気感に満たされ、それがブレることはありません。それを支える重要な要素の一つは、全てを心得ているプロ同志の会話や心の読み方です。そこに知識階級に属するル・カレが背負う英国の文化的蓄積の厚みを感じます。2020年12月12日、ジョン・ル・カレは、89歳で亡くなりました。上質な読書の楽しみを与えてくれたことに感謝しつつ、合掌。(写真出典:sankei.com)

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