驚いたことに、今時の若い人は忠臣蔵をよく知らないようです。かつて12月と言えば、舞台もTVも忠臣蔵で溢れていたように思いますが、近年は、ほとんど聞きません。歴史の教科書で学ぶことでもないので、若い人が知らないとしても不思議はないわけです。かつて、初めて来日した米国人と四十七士の話になりました。"47Ronin" の話は聞いたことがあるが、それが史実とは知らなかった、と大興奮し、後日、二人で泉岳寺へお参りしました。米国では映画化もされています。ただ、戦後の占領下、仇討ちを恐れたGHQは、忠臣蔵の上演を禁止していました。
赤穂浪士が吉良邸に討ち入った”赤穂事件”は1701年12月14日に起きました。それから約50年後、浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」が初演されています。事件直後から、それを題材とした芝居はあったようですが、事実に即した脚本化はされていません。それらの集大成が「仮名手本忠臣蔵」と言われますが、やはり実名は避け、フィクション部分の多い内容となっています。幕府が事実の喧伝を禁じたからです。その理由は、討ち入りの動機が、 仇討ちよりも、公平性に欠ける幕府の処分に対する抗議だったからだと言われます。浅野内匠頭は切腹、吉良上野介はお構いなし、という処分は将軍綱吉自身による裁定でした。
武家社会の慣行だった敵討ちは、江戸期、尊属の敵討ちについてのみ法制化されます。敵討ちは事前登録制でした。赤穂浪士の討ち入りは、法律上、敵討ちとは認定できません。また、処分の公平性を問う背景には、喧嘩両成敗の原則があります。ただ、殿中松の廊下において、内匠頭が刃傷に及んだ際、上野介が無抵抗だったため、これは適用されなかったようです。事件の背景とされる上野介によるハラスメントについても、確認が行われたようですが、なにせ加害者の内匠頭が、即日切腹となり、十分な事情聴取はできていません。
幕府が禁じたため、事実が詳細に語られることは無く、フィクションである忠臣蔵の方が定着していきました。赤穂事件が、国民的人気を集めるようになったのは、明治以降のことです。天皇主権の中央集権化を進める薩長政府が、自らを犠牲にした忠義のあり方を国民に浸透させるために、赤穂事件を活用したからです。明治天皇は、公儀への反逆者である赤穂浪士を、あらためて忠義の士として認め、顕彰します。以降、赤穂浪士は教科書にも載り、美化が進められました。薩長の緻密な洗脳政策の一例と言えます。
新橋の和菓子屋である新正堂の「切腹最中」は、同店が、内匠頭が切腹させられた一関藩の藩邸跡地に立地することから売り出されました。その名称から、営業マンが客先に謝罪する際の手土産の定番となっています。特に証券会社の営業が多用したことで有名になりました。求肥の入った最中は、なかなか美味しい逸品です。ただ、あんこが多く、最中の皮が開いているところが、ややグロではありますが。(写真出典:shinshodoh.co.jp)