「邯鄲」は、唐代の「枕中記」という小説に出てくる実によく知られた話です。邯鄲の枕、邯鄲の夢、一炊の夢等、様々に呼ばれるほどポピュラーな話です。人生に不満をいだく農夫盧生は、趙の都の邯鄲で、仙人に出会います。仙人は、夢が叶うという枕を与えます。すると、紆余曲折はあるものの、盧生は大出世を遂げ、家族にも恵まれ、惜しまれつつ亡くなります。そこで盧生は目が覚めます。居眠りする前に火にかけた粟粥が、まだ炊き上がってもいない短い間に見た夢でした。盧生は、栄枯盛衰の虚しさを知り、煩悩から解き放たれます。
能楽「邯鄲」は、勧進能で上演されたくらい、昔から人気の演目だったわけです。「邯鄲」は、原典の枕中記とは異なる点もありますが、基本的なプロットは同じです。分かりやすいのですが、話としては単純すぎる面もあり、演劇には向かないように思っていました。ですから、人気演目だということが理解できませんでした。今回、初めて見て、その魅力に納得しました。現実と夢の二重構造あるいはその落差、夢の中の宮廷の華やかさ、作り物(舞台装置)の二重の見せ方、盧生のさとりのあり様、テンポの緩急など演劇的な見せ場の多い演目でした。奥深さもありますが、能楽の魅力を分かりやすく伝える演目だと思います。
「邯鄲の夢」は、人生の儚さ、無常観を伝える話と理解されます。日本人の心情によく合う話ではありますが、これほどまでに人気が高いのは、より俗っぽい下世話な構図もあるからではないかと思います。俗世の栄達など一炊の夢に過ぎない、と言われても、より現実的には、一瞬であっても出世したい、と考える人も多いはず。恐らく、出世などすることもない多くの人々が、出世など一炊の夢だよ、と自らを納得させている面もあるのではないでしょうか。実に華やかな演出を見ていると、そうした大衆の共感を訴求しているようにも見えてきます。
能楽「邯鄲」の盧生は、もともと楚の羊飛山の賢者のもとを目指していました。途中の邯鄲で悟り、故郷へ帰ります。不思議な枕の力を借りたとしても、見た夢は、自らの欲望そのものであり、それが儚いものだったわけです。つまり、わざわざ賢者の訓えを請わなくても、自らの欲望と向き合うことで悟ることができる、と言っているようにも思えます。(写真出典:tomoeda-kai.com)