2020年12月22日火曜日

屯田兵

屯田兵の住居
私の母方の祖母は、室蘭輪西兵村の屯田兵の娘でした。祖母の父は、佐賀鍋島藩の下級武士の家に生まれ、明治中期、屯田兵に志願して北海道に渡りました。この頃までの屯田兵は、士族出身者に限定されていました。屯田兵総計7.337名の出身地を多い順に見ると、石川、山形、宮城、鳥取、福岡に続き佐賀は第6位となっています。佐賀県が多い背景には、初代北海道開拓使が佐賀藩主の鍋島直正であり、”北海道開拓の父”と呼ばれる島義勇が佐賀藩士であったことが関係しているのかもしれません。

屯田兵制度は、北海道開拓と北方警護を目的に、明治政府が1874年から1904年まで運用した兵農制度です。屯田兵には、困窮した士族救済というねらいもありました。兵農分離を行ったのは江戸幕府ですから、そもそも戦国時代までの日本の武士は兵農が基本でした。屯田兵を提唱したのは西郷隆盛とされます。北海道は人口が少なく、徴兵が困難であったことから発想したとされますが、困窮士族救済も念頭にあったのでしょう。ただ、実現する前に西郷が野に下ったため、黒田清隆が引き継ぎ、実現しています。

皮肉なことに、西郷の西南の役に際し、屯田兵は、北海道から熊本へ派兵され、大活躍しています。当時の屯田兵は、奥州各藩出身者が多く、戊辰戦争の仇とばかりに奮戦したようです。屯田兵は、農民に銃を持たせるのではなく、兵に鍬を持たせるものでした。あくまでも軍組織であり、開墾も組織的に行われてます。強制労働なみの厳しい労務、粗末な住居とはいえ、他の開拓民よりは恵まれていたようです。当初の制度は、3年間現役兵、その後は予備役となり、農業を主とし、戦時と演習時に招集されます。平民屯田兵も受け入れた後期では、3年現役、4年予備役、後備役13年となりました。

屯田兵は、西南の役以降も、日清、日露戦争でも出兵しています。ただし、日清戦争時には、東京に集結して待機中に講和条約が結ばれ、戦場にでることはありませんでした。日清戦争後、屯田兵を母体に第七師団が旭川に編成されています。日露戦争が勃発すると、第七師団は、乃木希典の第三軍に編入され、旅順攻囲戦、奉天会戦に参戦しています。その後、第七師団は、満州、南太平洋、アリューシャン列島で戦いますが、1940年以降は、北海道から動かず、ソヴィエトへの備えに徹しています。北海道は植民政策によって、人口が増え、十分な徴兵が可能と判断した政府は、1904年、屯田兵制度を廃止しました。

屯田兵本部長だった永山武四郎は、ロシアでコサック兵団を調査し、平民も含めた後期屯田兵制度の参考にしています。そもそも屯田兵設立の際も、黒田清輝が、コサックを参考にしたという話もあります。コサックは、ドン川流域の半農半軍の独立性の高い民であり、ロシアに敗れた後、一部は屯田兵として、シベリアに送り込まれています。実は、日露戦争のおり、朝鮮北部において、屯田兵は、その本家コサック騎兵と戦っています。激戦の末、コサックが敗走したとされています。(写真出典:suido-ishizue.jp)

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