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屯田兵の住居 |
屯田兵制度は、北海道開拓と北方警護を目的に、明治政府が1874年から1904年まで運用した兵農制度です。屯田兵には、困窮した士族救済というねらいもありました。兵農分離を行ったのは江戸幕府ですから、そもそも戦国時代までの日本の武士は兵農が基本でした。屯田兵を提唱したのは西郷隆盛とされます。北海道は人口が少なく、徴兵が困難であったことから発想したとされますが、困窮士族救済も念頭にあったのでしょう。ただ、実現する前に西郷が野に下ったため、黒田清隆が引き継ぎ、実現しています。
皮肉なことに、西郷の西南の役に際し、屯田兵は、北海道から熊本へ派兵され、大活躍しています。当時の屯田兵は、奥州各藩出身者が多く、戊辰戦争の仇とばかりに奮戦したようです。屯田兵は、農民に銃を持たせるのではなく、兵に鍬を持たせるものでした。あくまでも軍組織であり、開墾も組織的に行われてます。強制労働なみの厳しい労務、粗末な住居とはいえ、他の開拓民よりは恵まれていたようです。当初の制度は、3年間現役兵、その後は予備役となり、農業を主とし、戦時と演習時に招集されます。平民屯田兵も受け入れた後期では、3年現役、4年予備役、後備役13年となりました。
屯田兵は、西南の役以降も、日清、日露戦争でも出兵しています。ただし、日清戦争時には、東京に集結して待機中に講和条約が結ばれ、戦場にでることはありませんでした。日清戦争後、屯田兵を母体に第七師団が旭川に編成されています。日露戦争が勃発すると、第七師団は、乃木希典の第三軍に編入され、旅順攻囲戦、奉天会戦に参戦しています。その後、第七師団は、満州、南太平洋、アリューシャン列島で戦いますが、1940年以降は、北海道から動かず、ソヴィエトへの備えに徹しています。北海道は植民政策によって、人口が増え、十分な徴兵が可能と判断した政府は、1904年、屯田兵制度を廃止しました。
屯田兵本部長だった永山武四郎は、ロシアでコサック兵団を調査し、平民も含めた後期屯田兵制度の参考にしています。そもそも屯田兵設立の際も、黒田清輝が、コサックを参考にしたという話もあります。コサックは、ドン川流域の半農半軍の独立性の高い民であり、ロシアに敗れた後、一部は屯田兵として、シベリアに送り込まれています。実は、日露戦争のおり、朝鮮北部において、屯田兵は、その本家コサック騎兵と戦っています。激戦の末、コサックが敗走したとされています。(写真出典:suido-ishizue.jp)