シャングリ・ラは、ジェームス・ヒルトンの「失われた地平線」(1933)に登場する理想郷です。崑崙山脈あたりの谷間に建つ僧院の名前として登場します。ヒルトンは、「チップス先生さようなら」等でも知られる小説家ですが、「ミニヴァー夫人」(1942)でアカデミー脚本賞も獲っています。「失われた地平線」はペーパーバックで出版され、ベストセラーになります。製紙と印刷機械の技術革新により、19世紀に登場したペーパーバックは、 1930年代に至り、一般化します。「失われた地平線」のヒットが果たした役割も大きいわけです。かつて本を読める、本を買えるのは、一部の階級だけだったわけですが、産業革命は、本や新聞の大衆化をもたらしたわけです。
19~20世紀初めは、秘境探検ブームの時代でもありました。背景には、産業革命による植民地獲得競争、交通手段の拡充等があります。また、大衆の目を海外に向けるということに関しては、出版の影響も大きかったはずです。1888年には、ナショナル・ジオグラフィック誌も発刊され、探検小説や冒険小説も人気を博します。ジェームス・ヒルトンも、ナショナル・ジオグラフィック誌の記事に触発されて「失われた地平線」を書いたとされます。ちなみに、この時代の秘境探検ブームの姿をよく伝えるのがインディアナ・ジョーンズ・シリーズだと思います。
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シャングリラ県松賛林寺 |
シャングリ・ラは、理想郷と言われますが、桃源郷とは異なります。また、理想郷や桃源郷は、ユートピアとも異なります。桃源郷は、陶淵明の「桃花源記」(4~5世紀) が出処とされます。武陵の漁師が桃の林に迷い込み、奥の洞窟を抜けると、戦乱を避け隠れ住んだ人々が、数百年にわたって平和な生活を営んでいた、と書かれています。桃源郷は、より詩的な存在であり、より個人的な観念世界だと思います。理想郷は、限られた集団を前提にSF的な理想を求めています。ユートピアは、理想的な社会を、包括的、かつ社会科学的アプローチで設計します。ただ、管理という側面は不可避で、皮肉なことにそれがディストピアにつながります。
桃源郷も、シャングリ・ラも、ユートピアも、いつまでも人気が衰えることはなく、陶淵明、ジェームス・ヒルトン、トマス・モアの後に続く者たちも絶えることがありません。その最大の理由にして、三つの共通点でもあるのが、それがこの世には絶対存在しない、ということです。(写真出典:treking1179.seesaa.net)