2020年12月9日水曜日

ハンサム・ハーリー・レイス

 

WWE時代のハーリー・レイス
一番好きなプロレスラーは誰かと問われれば、間違いなくハンサム・ハーリー・レイスと答えます。殴る、蹴る、そして頭突きと、荒っぽいイメージの強いレスラーですが、テクニックも一流、また倒れっぷりの良さも見事なものでした。老獪ともショーマンとも言われますが、ラフで、真っすぐなファイト・スタイルは、強くアメリカを感じさせます。当時世界最高峰だったNWAタイトルの防衛記録からも、ザ・プロレスラーと呼ぶにふさわしく、また古き良きプロレス界を代表するレスラーでした。残念ながら、2019年8月、76歳で亡くなりました。

アメリカにおけるプロレスをビッグ・ビジネスに変えたのはWWEです。70年代までは、各地の各団体に分散していたプロレス界を、ケーブルTVの力を持って統一し、かつ各レスラーにストーリーを持たせ、ショーとしての要素を思いっきり高めたことが、ビジネスとしての成功につながりました。80~90年代、WWEの看板レスラーは、ハルク・ホーガンでした。レスリングもしっかり行われていましたが、放送時間は、試合よりもパターン化された因縁話のプレゼンの方が多いという状態になっていきました。

87年、WWEの本拠地NYのマディソン・スクウェア・ガーデンで、ハーリー・レイスの試合を見ました。WWE では、「キング・ハーリー・レイス」として、王様風の格好をさせられ、ヒールの親玉をやっていました。いささか悲しくなりました。試合が始まると、随所にザ・プロレスラーの片りんを見せたものの、ヒールの王様という役柄には終始忠実でした。90年前後だったと記憶しますが、ニュージャージー州の公的施設の利用を巡って、WWEのプロレスは、スポーツなのか、ショーなのかということを争点に裁判が行われました。WWEは、法廷で自らショーであると認めています。

伝統的なプロレスであっても、ショーとしての側面は否定できません。ただ、鍛え上げた体と技が大前提であり、そして何よりもファイティング・スピリットがなければ、とてもリングの上に立てるものではありません。ハーリー・レイスは、1943年ミズーリ州の生まれ。15歳のとき、腕自慢の観客と戦うサーカスのカーニバル・レスラーとしてデビューします。17歳でNWAへ参戦し、ストリート・ファイトで鍛えたタフさに、ドリー・ファンク・シニアに師事して得たテクニックを武器に頭角を現わしていきました。実は、ハーリー・レイス最大の強みは、アメリカ人がプロレスに望むものをよく心得ていたことだとも思えます。

アメリカの中西部で、何度か一緒に仕事をした大手保険会社のセールス・レップが、プロレス・ファンでした。どこで聞きつけたか、私がハーリー・レイス・ファンだと知り、仕事そっちのけで、怒涛の如くプロレス話を繰り出してきました。彼が、日本のレスラーにも詳しかったことには驚かされました。聞けば、マニアックなプロレス同人誌の定期購読者で、世界中のレスラーに精通していたようです。プロレスは、こういう熱狂的なファンに支えられているということを、あらためて、中西部で知らされました。(写真出典:thesportster.com)

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