2020年12月2日水曜日

松島の月

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。

松島の月
松尾芭蕉「おくのほそ道」(1702)冒頭の一説です。日本を代表する紀行文と言われ、芭蕉の名句が散りばめられています。東北から北陸にかけて、600里、2,400キロ、150日の旅でした。「おくのほそ道」が名作たりえているのは、芭蕉の名句が多く載せられているからではなく、旅そのものが、一つの文化が完成されていくストーリーになっているからだろうと思います。それは無常観を背景とした俳諧のわび・さびから、全てを認めたうえでの軽みに至るということなのでしょう。冒頭の一説が、それを端的に伝えています。

芭蕉は、なぜ旅に出たのか、ということが気になります。冒頭文は「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、」と続き、白河の関を越え、松島の月が見たい、と書かれます。芭蕉は、住まいを引き払い、旅に出ます。物見遊山の旅であれば、そこまでする必要もありません。では、芭蕉の真意は何だったのでしょうか。師と仰ぐ西行の死後500年にあたり、諸国を遍歴した西行に習い旅に出た、とも、みちのくに多く存在する歌枕を訪ね、古人に学び俳句を詠むため、とも言われます。

芭蕉は、1644年、伊賀国に生まれ、藤堂家の俳句好きの若殿に仕えたことから俳句の道に入ります。28歳で句集を出した芭蕉は、江戸へ出ます。神田上水の事務方を務めながら、腕を上げていき、33歳で宗匠となります。当時の江戸の俳諧は、言葉遊びに終始し、宗匠たちは弟子の数を競うという浮かれた状態にあったようです。芭蕉は、これを良しとせず、36歳で宗匠をやめ、深川に庵を結びます。俳句を和歌と並ぶ領域まで高めたされる芭蕉ですが、まさに革命家だったわけです。

深川芭蕉庵での暮らしは質素なものだったでしょうが、収入の無い芭蕉を、門弟や支持者が支えていたようです。芭蕉は、40歳ころから旅へ出始めます。故郷である伊賀を含め、関西方面へ2度、そして信州へと旅をしています。各地で支援者たちの世話になったようですが、芭蕉が目指す俳諧のあり方を広める旅でもあったのでしょう。そうした旅が準備でもあったかのように。46歳、庵を引き払い、弟子の曽良だけを伴い、支援者とていないみちのくへと旅立つわけです。まさに退路を断ち、古人が詠んだ名勝に向き合い、自らが目指す俳諧を完成させようとしたのでしょう。命を懸けても成し遂げるという覚悟の旅立ちだったとも言えます。芭蕉がたどり着いた俳諧の心は、不易流行、そして軽みだったと言われます。

ちなみに、旅の目的地でもあった松島では、その絶景に圧倒され、一句も読めなかったと言います。「松島や、ああ松島や、松島や」は有名ですが、実は、狂歌師の田原坊なる人の作とされます。江戸期の書物に、芭蕉が松島で一句も詠めなかった話と同時に掲載されたために、誤解が広がったようです。(写真出典:japan100moons.com)

マクア渓谷