司馬は、いくつかの歴史ブームを巻き起こしていますが、その一つが「燃えよ剣」(1964)による新撰組ブームでした。司馬は、同じジャーナリスト出身である子母沢寛の「新撰組始末記」(1928)に感動し、これを超えることはできないと思ったそうです。そこで、副長土方歳三にフォーカスして「燃えよ剣」を書き、成功します。子母沢寛は新聞記者時代、当時、まだ生き残っていた関係者を徹底取材して、「新撰組始末記」を書いています。育ての親でもある祖父が、函館戦争で敗れた元彰義隊の御家人だったことも、大きく影響しているのでしょう。明治期の薩長政権下、賊軍だった新撰組は、ならず者の人斬り集団というネガティブなイメージで捉えられていたようです。転機となったのは、1913年、小樽新聞に掲載された永倉新八の口述回顧録です。これも子母沢寛に影響を与えたのだと思います。
司馬の本がよく読まれたこと、ノン・フィクション的であること等から、司馬独自の史観が歴史的事実であるかように広まっていることは、いささか問題だとも思います。同様、勝者の論理とも言える薩長史観も問題ではあります。新撰組については、公儀に殉じた幕末の青春群像であることも、物騒な人斬り集団であったことも事実なのでしょう。いずれにしても、新撰組の人気が衰えないことは驚きです。もちろん、「燃えよ剣」のヒットに始まるわけですが、その後も書籍、映像、近年は少女漫画まで含めて、新撰組ネタが絶えることがありません。歴史的役割はほぼゼロ、当時の京都市中では嫌われ者、明治の元勲にはいじめられた者も少なからず、かつ薩長政権の影響もあってか資料も乏しい集団が、これほどの人気を勝ち得ていると知ったら、本人たちが一番驚くに違いありません。
司馬の好意的な文章の影響の他にも、滅びの美学、判官贔屓といった点も新撰組人気に寄与しているのでしょう。加えて、近藤勇、土方歳三はじめ新撰組の隊員の多くが、武士ではなく農民出身であったことが、人を惹きつけているのではないかと思えます。京都守護職預かりといっても、組織の外にあり、為政者たちの直接指示で動いたわけではありません。幕府方として将軍警護を目的としていたわけですが、その集団としての性格は、武士階級や武家組織のアンチテーゼとしての市民軍だったとも言えるのではないでしょうか。そういう意味では、高杉晋作の奇兵隊と同じく、変革の時代にあって、近代を予感させる組織だったと思います。さらに言えば、幕末の歴史を動かした下級武士たちにも通じるものがあると考えます。無頼の集団とは言え、封建の世に別れを告げた市民組織に、人は惹かれるのだと思えます。
新撰組が、江戸で徴募された時、名称は浪士組だったようです。京都到着後、清川八郎の朝廷方への寝返りが発覚し、浪士組は、江戸に帰還させられます。その際、居残った近藤一派と芹沢一派が壬生浪士組となります。この浪士組という呼称こそ、最も新撰組らしい名前のように思えます。その後、八月十八日の政変での活躍が評価され、宮中、ないしは会津藩の松平容保から、新撰組という名前を拝領したとされています。しかし、そんな大事なことすら記録がないとは驚きです。浪士の集まりゆえかもしれませんが、やはり敗残した賊軍の悲しさなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)