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「薔薇の名前」初版 |
アメリカにおける乱射事件の背景には、米国憲法修正第2条があります。独立戦争におけるミニットマン等の活躍からして、民兵を認め、個人が銃を持つ権利を奪ってはならない、とする条文です。アメリカで、簡単に銃が買え、銃があふれている所以です。しかし、国民一人あたりの銃保有数がアメリカを上回るカナダでは、銃撃事件は極端に少なく、犯人の多くはアメリカ人だとされます。この点を指摘したムーア監督は、アメリカ社会は、ネイティブ・アメリカンや黒人等の被差別人種からの仕返しを恐れる社会だとします。さらに、ブッシュ親子が、アメリカを恐怖で支配していると指摘しました。つまり、中東での戦争を正当化するために、テロの恐怖を喧伝し、社会は相互不信に陥ったわけです。慧眼だと思いますが、スクール・シューティングは、また少し異なる背景があるように思います。
スクール・シューティングの犯人の多くは少年たちです。自由の国アメリカは、激しい競争社会でもあります。学校では、競争に勝ち抜く教育が行われます。また、人種や貧富の差に対する激しい差別が存在します。落ちこぼれた子供、差別された子供の絶望感は、悲惨としか言いようがありません。アメリカ社会のもう一つの病である崩壊した家庭は、子供たちを救うことができず、むしろ追い詰めていきます。追い詰められた子供たちの手の届くところに銃があるわけです。こうした状況も、アメリカ社会の抱える恐怖なのかも知れません。社会とは統制システムでもあります。アメリカ型の社会統制システムは、自由の代償としての恐怖を生み出す仕組みになっているのかも知れません。そう考えた時、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を思い出しました。
イタリアの哲学者、記号学者であるウンベルト・エーコが、1980年に発表した小説「薔薇の名前」は、世界的ベストセラーになり、映画化もされました。1970年代イタリアの政治・社会状況を、宗教が支配する中世に擬して、警告を与えたとされます。14世紀、イタリア北部の修道院を舞台に、失われたとされるアリストテレスの著作「詩篇・第二部」を巡って、ミステリ仕立てのストーリーが展開されます。「詩篇・第二部」は、喜劇を論じているとされます。神は恐怖を前提に存在し、笑いは宗教を脅かす存在だとする論理がプロットを構成しています。古代ギリシャの笑いは、至って下世話で卑猥なものだとされます。そもそも笑いとはそういうものなのでしょう。笑いは、共感の産物であり、連帯感を生み出します。対して、恐怖は、人を孤独にしていきます。ゆえに人は、救いとして神、宗教という大きな連帯感にすがることになります。
いまやネット上は、言葉と記号であふれかえり、若者は、現実以上に、ネット空間でのつながりに依存しています。そこに恐怖を一滴たらせば、若者たちは孤立感に怯え、連帯を求めて一定方向に雪崩を打つことになります。すでにQアノン等が、その恐れを先取りしているように思えますし、かつての独裁者たちがもたらした現象の再現でもあります。その際、多様性こそが大きな歯止めの役割を果たすはずです。私たちは、多様性を阻むもの、そして多様性を潰す動きに敏感である必要があります。(写真出典:biblio.com)