2022年6月23日木曜日

柳川

柳川には、一度行ったことがあります。40年前、熊本で行う後輩の結婚式の司会を頼まれ、初めて九州に行きました。タイトな日程だったのですが、柳川だけは寄りたいと思い、福岡空港に降り、西鉄で柳川に入りました。柳川にこだわった理由は思い出せません。特段、北原白秋ファンということもなく、柳川の歴史に興味があったとも思えません。恐らく、TVの紀行番組等で見た柳川の風情に惹かれたのだと思います。水の都とも呼ばれる福岡県柳川は、干満差の激しい有明海を利用し、掘割を縦横に巡らせた城下町です。 掘割をどんこ船で巡る川下り、あるいはうなぎのせいろ蒸しでも有名な街です。

柳川は、福岡市のベッドタウンとなっています。西鉄の車内は、帰宅する高校生たちであふれ、福岡の言葉を十分に堪能することができました。柳川に着いたのは、もう夕暮れ時のことでした。遊覧船の事務所に飛び込むと、今日は終わりだと言われましたが、なんとかねばって、船を出してもらいました。結果、たった一人の乗客という贅沢な川下りになりました。どんこ船は、夕餉の準備に入った家々の裏庭を通り、部活帰りの高校生たちが通る橋の下をくぐります。穏やかな日本の原風景を楽しむ川下りでした。船頭さんが吟じる北原白秋の詩も、心に染み入るようでした。船着き場に戻ると、近所の鰻屋に入り、名物のせいろ蒸しを頂きました。

筑後地方のせいろ蒸しは、タレをつけて直焼きしたうなぎを、ご飯のうえに乗せ、錦糸玉子ものせて、せいろ蒸しにします。言ってみれば、関東の蒸し焼きと関西の直焼きのいいとこ取りのような料理です。ふっくら仕上がったうなぎも美味しいのですが、うま味が染みこんだご飯が絶品です。柳川は城下町であり、うなぎのさばき方は、背開きになります。これが余分な油を落とす効果もあるだそうです。タレが甘めなところが、九州らしい味とも言えます。柳川は、どじょうの柳川鍋発祥の地でもあります。柳川藩江戸屋敷が、将軍家に献上し、どじょうまで食べなければならない藩の窮状を訴えたことが始まりだとされます。面白い策を考えたものです。

筑紫平野南部に位置する柳川は、弥生時代から栄えたようです。戦国時代になると、蒲池氏が柳川城を築きます。以降、豊かな地を巡る争いは絶えず、領主は目まぐるしく変わっています。江戸期には立花氏が柳川藩10万石を所領しました。初代立花宗茂は、実に興味深い武将です。大友氏の家臣の出ですが、武勲・忠義で知られ、秀吉の九州平定での活躍が認められて柳川13万石の大名となります。関ヶ原では西軍として戦いますが、敗れて野に下ります。ただ、その人物を見込んだ徳川家康によって取り立てられ、大坂の陣では徳川方として活躍し、結果、柳川10万石を回復しました。なんでもありの戦国時代ですが、さすがに旧領を回復した大名は、立花宗茂ただ一人と言われます。

北原白秋の出身地として知られる柳川ですが、実は、江戸相撲第10代横綱である雲龍久吉の生地でもあります。当然とも言えますが、柳川藩のお抱え力士でした。この雲龍、そして第11代横綱である熊本出身の不知火の土俵入りは、実に美しいと評判になります。現在も、横綱土俵入りと言えば、左手を腹に当ててせり上がる雲龍型、両手を広げてせり上がる不知火型、いずれかで行われます。ただ、面白いことに、雲龍が行った土俵入りは、現在、不知火型と呼ばれ、不知火が行ったものは雲龍型と呼ばれています。どこかの時点で、うっかり入れ替わり、そのままになったようです。実にお粗末な話ですが、結構、相撲ファンお気に入りの雑学でもあります。(写真出典:4travel.jp)

マクア渓谷