「JB自身が一つの音楽ジャンルだ」と言ったのはジミー・ペイジでした。ソウル・ブラザーNo.1、ファンクの帝王として、多くのミュージシャンに影響を与えましたが、彼の音楽は誰にも真似できないものでした。バックバンドJB'Sの音楽は、コピーできたとしても、あのキレのあるダイナマイト・ヴォイスがなければ、JBの音楽は成立しません。ファンキーなドラム、強烈なカッティング・ギター、リズム・セクションのようなホーン、JBのダイナマイト・シャウトすらリズム楽器のようです。JBは、1956年、21歳の時、「Please, Please, Please」でデビューします。JBの代名詞ともなったファンクは、1964年の「Out of Sight」に始まるとされますが、確立されたのは、1967年の「Cold Sweat」です。日本で一番有名のは、”ゲロンパ”で知られる「Get Up(I Feel Like Being a)SexMachine 」(1970)なのでしょう。
JBのファンクは、ニューオリンズの葬送で演奏されるセカンド・ラインが起源だとも言われますが、よく分かりません。個人的には、1959年にリリースされたインストゥルメンタル・ナンバー「 (Do the)Mashed Potatoes 」が、JBのファンクのオリジンではないかと思っています。当時、流行していたダンス”マッシュポテト”のブームに乗った曲です。後のブレイク・ダンスに大きな影響を与えたJBのダンスは有名ですが、マッシュポテトがベースになっていると思います。JBのファンクを生んだのは、マッシュポテトではないかと思います。強烈なリフで、ダンサブルなJBのファンクですが、皮肉な事に、1970年代後半にディスコ・ブームが始まると、JBの人気は衰え、低迷期に入ります。恐らく、エッジの効き過ぎたJBのリズムは、黒人以外が踊るにはハードルが高かったのではないかと思います。1980年代に入ると、大御所としての映画出演や「Living in America」(1985)のヒットなどで、見事に復活しています。
ジェームス・ブラウンは、1933年、サウスキャロライナ州の掘っ立て小屋で、極貧の両親のもとに生まれます。父親にはネイティブ・アメリカン、母親にはアジア系の血が混ざっているようです。JBの生い立ちには、アメリカ黒人の苦難の歴史が全て詰まっているかのようです。一家は、ジョージア州オーガスタに越しますが、あまりにも貧しく、叔母が経営する売春宿に居候し、家庭内暴力に絶えかねた母親は逃げ出しています。幼いJBは、綿花摘みや靴磨きをしながらも、音楽への興味を募らせていたようです。15歳のおり、車の窃盗で差別的判決を受け、3年間、少年院に収監されています。仮釈放後、JBは、ゴスペル・グループに参加し、音楽活動を始めています。
JBは、希代のトラブル・メーカーでもありした。バンド・メンバー、プロデューサー、レコード会社、IRS、警察、妻たち等とのトラブルが絶えることがありませんでした。ニクソン再選を支持して、総スカンをくったこともあります。DV、銃器保持、警官への暴行等で、何度か収監もされています。貧困に奪われた少年時代が、成功した後に現われているようでもあります。あるいは、ステージ同様エネルギッシュな私生活は、天才らしい天衣無縫さだったのかも知れません。いずれにしても、JBのエキセントリックな音楽と私生活の原動力は、母親に捨てられ、極貧の生活にあえいだ幼少期の孤独感だったのではないかと思います。(写真出典:ticro.com)