![]() |
熊沢天皇 |
当時、最も関心を集めたことの一つが昭和天皇の扱いです。連合国側にとっては、ヒトラー、ヒロヒト、ムッソリーニは、第二次大戦を仕掛けた三悪人とされていました。戦犯No.1候補だったわけです。結果的には、リスクを抑制しつつ日本を統治するために天皇は存置するというマッカーサーの方針が打ち出され、憲法に反映されます。それまでの間に、奇妙なことも多々起きています。その一つが、自称天皇が複数現われたことです。その数、19~30人と言われます。その代表が、熊沢天皇でした。名古屋で雑貨商を営む熊沢寛道は、熊野宮信雅王なる皇子の子孫であると主張、正統な皇位継承権は南朝の後亀山天皇の直系である自分にあるとします。記録上、南朝最後の親王とされるのは後亀山天皇の子である尊雅王であり、信雅王は確認できません。マスコミは、面白い話題として、揶揄的に取り上げました。
実は、明治時代、熊沢の父親も同じ主張を政府に上奏し、ことごとく無視されていたようです。熊沢天皇の主張は、筋金入りだったわけです。熊沢天皇が世間に知られるようになった経緯は、興味深いものがあります。熊沢は、彼の主張をGHQにも送りつけます。たまたまそれを目にした米軍の準機関紙である星条旗新聞の記者が、他の欧米誌の記者とともに、熊沢を取材し、記事にします。熊沢天皇は、一躍、時の人となります。星条旗新聞が、単なるこぼれ話として扱ったのか、あるいはGHQの一部が天皇制に揺さぶりをかけようとしたのかは判然としません。熊沢天皇問題の焦点は二つあります。まずは、熊沢が後亀山天皇の直系かどうか。この問いに、熊沢は、証拠はすべて天皇家にあるはずだと答えています。お話になりませんが、肯定も否定もできません。
今一つは、南朝、北朝、いずれが正統か、という大問題です。これは、もう延々と議論されてきた問題です。明治期にも大激論が行われ、帝国議会では政争の具にもなります。明治44年、帝国議会は一定の答えを出しています。南朝の正統性を認めた上で、1392年、明徳の和約において南北合一が行われている、ただ、和約が履行されず、混乱が生じたとしました。国としての公式見解からすれば、熊沢天皇が主張する南朝の子孫説はともかくとして、皇位継承に関する正統性は論外ということになります。マスコミの寵児となった熊沢天皇の周囲には、これを利用しようとする人々が集まり、政治団体を作り、全国遊説まで行います。しかし、GHQの天皇制存置の方針が打ち出されると、世間の興味は薄れ、人々も去っていきます。
熊沢は、皇位継承権の正統性を巡る訴訟も行っています。ただ、天皇は裁判権の外、として退けられています。サンフランシスコ講和条約が結ばれると、熊沢天皇は忘れ去られます。ただ、その主張を変えることなく活動していたようですが、最後は、板橋の飲み屋街に間借りし、寂しい死を迎えたようです。天皇制の帰趨が危ぶまれたこの時期、世論調査では85%の人が天皇制維持を望んでいたようです。天皇の戦争責任を問う声もありました。あまりにも当たり前の存在だった天皇について、程度の差はあったにしても、多くの人々が考えさせられた時期だったのでしょう。(写真出典:rikka-press.jp)