2022年6月30日木曜日

ローマのカタコンベ

西ローマ滅亡の理由としては、よく民族大移動が挙げられます。フン族に圧迫された東方ゲルマン族が西へと大移動を起し、巻き込まれた西ローマは滅亡するというわけです。外形的には、その通りでしょうが、本質的な滅亡の原因を巡る議論も数多くあります。愚帝、腐敗等を挙げる例もありますが、これらは制度疲労に伴う症状です。さらに、アントニヌス勅令などを遠因として挙げる場合もありますが、そうなるとローマの歴史すべてが原因となります。私のお気に入りは、多様性の喪失です。広大な古代ローマを成り立たせていたのは。”ローマの寛容”が実現した多様性でした。ローマ法やローマ街道といった文明のもと、各文化が独立性を保ちながら連携し、パクス・ロマーナを実現していたわけです。

 多様性喪失の象徴の一つが、キリスト教の国教化です。多神教だったローマに支配された民族は、それぞれの神を否定されることはありませんでした。しかし、313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教は公認され、392年、テオドシウス帝によって国教化されます。世界宗教としてのキリスト教の誕生です。ただ、一神教のキリスト教にあって、唯一神以外への信仰は邪教です。各民族の心の拠り所を否定することは、民族そのものの否定を意味します。緩やかな民族連合であったローマが崩壊するのは当然です。なお、コンスタンティヌス帝がキリスト教徒になった経緯は不明なままです。神の啓示を受けたとも、新たな統治システムを求めたとも言われます。

いずれにしても、コンスタンティヌス帝以前のローマは、皇帝を超える唯一神を崇拝するユダヤ教徒の扱いに手を焼き、イエス・キリストがガリラヤで宣教を開始した時から警戒を強め、300年間、キリスト教を弾圧してきました。しかし、終末における神の救済を説く一神教に、抑圧された人々はすがり、弾圧されるほど信仰心を強くするという構図がありました。いわば地下宗教だった時代のキリスト教を象徴しているのが、カタコンベと呼ばれる地下埋葬所です。ヨーロッパ各地にカタコンベは存在していますが、最も有名なものは、ローマ郊外にあるサン・カリストのカタコンベだと思われます。広さは東京ドームの3倍超、地下4層、通路の総延長は20kmに達する巨大な地下墓地には、50万人を超えるキリスト教徒が埋葬されていました。

サン・カリストのカタコンベは、ローマ市内から、地下鉄と路線バスを乗り継いで行けます。古代ローマを偲ばせるアッピア街道沿いにあります。聖地でもあるので、世界中からキリスト教徒が訪れています。カタコンベ内部へは、教会によるガイド・ツアーに参加しなければ入れません。各国語のツアーがありますが、英語ツアーが最も多く、予約なしでも参加できます。私は、2度行きました。これほど強烈に歴史を体感させられる場所はないのではないかと思います。それは単にキリスト教の歴史に留まらず、生々しい古代ローマの歴史でもあります。遺骨は、すでに他の場所に埋葬されていますが、通路に沿って、遺体が安置された窪みが並びます。思わず知らず合掌してしまいます。

アッピア街道沿いとは、実に巧みな配置をしたものだと思います。アッピア街道は、紀元前4世紀に敷設が開始されています。プーリア州のブリンディシまで総延長580kmというアッピア街道は”街道の女王”とも呼ばれます。現代の技術と大差無いほど高度な舗装が施されています。素早く軍を移動させるための軍用道路ですが、平生は庶民にも開放されていました。ローマ街道は、多様性がゆえに発達したローマ経済の基本インフラだったわけです。人や荷馬車が行き交う街道沿いであり、かつローマからも近いので、目立たず容易に遺体を運ぶことが可能だったと思われます。カタコンベは、ローマ市街を望む丘陵の地下にあり、現在は整備された緑地ですが、当時は農地や放牧地だったのでしょう。(写真出典:lugaresquevisitar.com)

マクア渓谷