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瀬田の唐橋 |
672年に起こった壬申の乱は、天智天皇の後継を争った古代最大の内乱と言われます。近江宮へ遷都した天智天皇は、弟の大海人皇子を皇太子に立てていました。これは、当時の慣例に従ったものでした。ただ、天智天皇は、息子の大友皇子を後継にする動きを見せ始めます。病の床についた天智天皇は、大海人皇子を呼び、皇位を譲ると伝えます。しかし、大海人皇子と後に持統天皇となる妻は、危険を感じ、これを固辞し、吉野で出家します。譲位を受けていれば、その場で殺されていたはずです。天智天皇が崩御すると、大友皇子が後継者となります。しかし、吉野にあった大海人皇子が、依然、大きなリスク・ファクターであったため、近江宮は、これを牽制、ないしは討ち取る動きを見せます。
出家していたとは言え、大海人皇子も座して死を待つというわけにいかず、わずか20人の臣下と女官のみを率いて吉野を出ます。大海人皇子は、この日のために、吉野に下り、爪を研いだという説もあるようですが、20人の部下では爪にもなっていません。大海人皇子は、伊賀、伊勢、美濃と動き、結果的には、東国の兵を味方につけます。一方、天智天皇による中央集権化指向に伴い近臣も少なくなっていた近江宮は、事実上の破綻に近い状態にあり、結果、瀬田橋の戦いに敗れた大友皇子は自害します。畿内から美濃一帯を戦場とした壬申の乱は、約1ヶ月間戦われています。勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位、都も近江から飛鳥に戻されます。
問題は、大友皇子が天皇に即位していたかどうか、という点です。定かな記録はありません。天智天皇が崩御したのが1月始め、壬申の乱は、7月末に起こりました。その間、6ヶ月間あります。もし、天皇に即位していたとすれば、壬申の乱は明らかな謀反であり、大海人皇子は朝敵です。天皇家の正統性に疑義が生じかねません。これを避けるために、勝利した大海人皇子側が、一切の記録を破棄したのではないか、とも言われます。歴史は勝者によって創られることは、今も昔も変わらぬ事実です。一方、当時、空位期間が生じることは、ままあったことでもあり、真相は判然としません。いずれにしても、藤原鎌足、中大兄皇子(天智天皇)とともに、大化の改新を断行した大海人皇子は、天皇即位後も、天皇を中心とした中央集権化を進めていきました。
天智天皇は、大化の改新を進めるにあたり、唐をモデルとした国造りを行っています。皇位継承についても、唐の嫡子相続制を移入しようとしたのではないか、と言われます。また、中央集権化を進めるために、藤原氏との専制体制を取り、他の貴族たちの恨みを買ったともされます。また、白村江の戦いで大敗した天智天皇は、唐が攻め込むことを恐れ、城や烽台を建設し、かつ近江への遷都も行っています。その費用や労役は膨大なものであり、豪族や庶民の間には、怨嗟の声が多かったとも言われます。部族国家に過ぎなかった日本を律令にもとづく中央集権国家に変えたのは、大化の改新と白村江の戦いだったと言われます。壬申の乱は、単なる跡目争いなどではなく、日本が国家を形成していく一過程だったということになるのでしょう。(写真出典:jalan.net)