2022年6月25日土曜日

実盛

白髪を染める実盛像
斎藤実盛は、源平合戦の初期を代表する平家方の武将です。武蔵国の幡羅郡長井庄を治めていたことから長井別当とも呼ばれます。当初、斎藤実盛は、南関東で急速に勢力を拡大した源義朝の傘下にありました。義朝は、頼朝・義経の父です。その後、信濃国から上野国に進出してきた義朝の異母弟である源義賢に圧迫され、その麾下に入ります。1155年、義賢は、大蔵合戦で義朝軍に敗れ、斎藤実盛は、再び、義朝軍に合流します。その際、実盛は、敗れた義賢の遺児・駒王丸を助け出し、信濃国へ送り届けます。駒王丸とは、後の木曽義仲です。義朝は、東国での勢力を背景に上洛し、実盛も同行します。鳥羽法皇の後ろ盾で、影響力を増した義朝でしたが、保元・平治の乱に敗れ、逃走中、美浜の湯殿で家臣に襲撃され、命を落とします。

命からがら、東国に逃げ帰った実盛ですが、今度は、平家方につき、実戦経験豊富な老将として重用されます。当時の東国侍は、領地を守るためには、何でもありだったわけです。1180年、以仁王の平氏追討の令旨に応じて挙兵した頼朝は、甲斐源氏とともに、富士川で、平維盛率いる追討軍と対峙します。実盛も追討軍のなかにいました。夜半、水鳥の羽音を敵襲と勘違いした追討軍は、我先にと逃げ出し、総崩れとなります。一説に寄れば、実盛が、東国侍の強さを追討軍内に喧伝していたためともされます。いずれにしても権力の座を謳歌する平家の無様な姿として知られます。同じ年、木曽では、頼朝の従兄弟である源義仲も挙兵します。越後から北陸へと勝ち進んだ義仲に、平家は、維盛を大将とする10万の大追討軍を出します。再び、実盛も同行します。

一進一退の攻防の後、追討軍主力7万は、倶利伽羅峠に布陣します。義仲軍は、見かけの小競合いの後、麓へ兵を引き上げ、7方から峠を囲みます。夜も更けて、追討軍が寝静まった頃合いを見計らって、義仲は夜襲をかけます。7方から攻められた追討軍は大混乱となり、唯一敵のいない方角へと雪崩を打ちます。そこは断崖絶壁が待ち受け、半数以上の兵が落下します。義仲の作戦勝ちです。敗走した追討軍は、加賀の篠原で陣形を整えますが、追撃してきた義仲軍に壊滅させられます。その際、齢70歳を超える斎藤実盛は、髪を染め、大将の陣羽織を借り、単騎、義仲軍に立ち向かいます。実盛は、奮戦の後、討ち取られます。首実検が行われるも、髪の黒さから実盛とは確認できませんでした。義仲は、首を池で洗うよう指示します。すると黒髪は、白髪へと変わります。

討ち取ったのが、命の恩人である実盛と知った義仲は号泣したと言われます。実は、この話には、後日談があります。250年後、時宗の高僧が、篠原の古戦場近くで、信者を集めて法要を行っていると、白髪の老人が現われ、十念を授かり消えたと言います。これは斎藤実盛の霊に違いないと評判になり、高僧は、懇ろに供養します。この騒ぎを題材としたのが、世阿弥作とされる能楽「実盛」です。私は、まだ観たことがありません。三修羅の一つとされる難曲であり、上演されることは希だと聞きます。老人は高僧にしか見えない幽霊という設定をはじめ、他の修羅ものにはない演出があり、腕の確かなシテ方にしか演じられないとも言われます。実盛の話は、義仲との因果話、老将の心意気、幽霊話など、いかにも狂言向きの題材ですが、その人生は、乱世のはじまり、東国侍の悲哀のはじまりを象徴するものだったようにも思えます。

今時分から夏にかけて、地方の農村部では、伝統行事の虫送りが行われます。目的は害虫駆除ですが、昔から死霊が虫になって稲を害するとされ、死霊退散という体裁を取ります。実盛が篠原の戦いで討ち取られた際、馬が稲の切り株につまずき、落馬したとされます。以来、稲を恨んだ実盛の霊が害虫となり、稲を荒らすようになったと言われます。西日本では、稲の害虫は実盛虫、虫送りは実盛送りと呼ばれるそうです。源平合戦には、名だたる武将たちが登場し、多くのエピソードが伝えられています。ただ、ここまで話の広がりを持つ武将も少ないのではないか、と思います。(写真出典:ranhaku.com)

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