2022年1月3日月曜日

エンパシー

東日本大震災の後、何度か被災地を訪れました。震災から1年後くらいのことですが、復興の進まない三陸で聞いた地元の人の言葉が、強く印象に残りました。支援はありがたい、感謝している、ただ、同情はいらない、同情ではなく、いつまでも震災を忘れないという気持ちを持ってもらいたい。人の記憶は薄れていくものです。震災の記憶を風化させないことこそ、被災した人たちへの支援なのだと知りました。被災した人たちへ寄り添う、という言葉も印象にのこりました。求められているのは、同情ではなく、共感ということなのだろうと思いました。

近年、”empathy(共感)”という言葉を、多く見かけるようになりました。共感という言葉自体は、新しい言葉ではありません。共感とは、他の人の感情、経験や考えを、自分のことかのように感じ、理解するということです。心理学や文化論、あるいは経営管理の世界において、”sympathy(同情)”との対比で取り上げられることが多いように思います。同情するという関係においては、両者の間に明らかな距離が存在し、場合によっては上下関係すら生まれます。対して共感は、両者の一体感が、より一層強くなります。分断の時代とも呼ばれる昨今ゆえ、注目を集め、新型コロナが、その傾向をさらに加速させたのでしょう。

共感という言葉が注目される理由として、少し異なる観点もあるように思います。共感とは、いわゆる仮想空間の広がりと深化を象徴する言葉なのではないか、とも思えるのです。ネットとスマホの普及によって、仮想空間は拡大の一途をたどっています。とは言え、仮想空間は、あくまでも仮想の世界として扱われ、現実空間とは明確に区別されます。当然と言えば、当然のことです。かつて、仮想空間は、現実空間の付帯的な存在でしかありませんでした。ところが、近年、どんどん現実空間が浸食され、仮想空間化しています。ビットコインやNFTアート、あるいはリモートワーク等が典型です。SNSの世界も含めて、既に仮想空間は現実そのものと言えるのではないでしょうか。

仮想空間には、国境も、身分も、差別も、格差もありません。そこには為政者たちが、人々を統制するために作り上げ、既成事実化してきた虚像は存在しません。ネットは、すべてのインターミディアリを否定するというのが私の持論です。人間が構築した制度は、すべてインターミディアリと言えます。国家、社会制度、貨幣、さらに言えば、言語すらもインターミディアリと言えるかも知れません。もちろん、言語が完全に排除されるとは思いませんが、ネットの本質は非言語的であり、言語に支配された世界ではありません。すべての媒介を排除して人と人が直接つながるネット世界において、コミュニケーションの根本を成すのは、”共感”なのではないかと思えます。

仮想空間を現実と認めることが、これからの人類の進歩や発展のトリガーになるようにも思えます。為政者たちは、仮想空間の広がりが、既存の現実社会を破壊し、無秩序な世界が作られることを恐れ、様々な規制をかけます。それらは、人類の進歩や発展を妨げているだけかも知れません。もちろん、ネット空間にも、何らかのルールは必要なのでしょう。ただし、そのルールとは、共感こそがコミュニケーションの基本であることを踏まえ、それを阻害しないためのルールでなければならないのでしょう。(写真出典:wcsu.edu)

マクア渓谷