ネフェルティティの胸像は、1912年、ドイツ発掘隊が、アマルナの彫刻家トトメスの工房跡で発見しました。トゥト・アンク・アメンの黄金のマスクとともに、古代エジプト美術の最高峰と言われています。古代エジプト美術の特徴と言えば様式美ということになりますが、ネフェルティティの胸像は、より写実的な印象を受けます。これはアマルナ様式と呼ばれ、アメンホテプ4世が断行した宗教改革の影響を受けています。アメンホテプ4世は、アメン・ラー信仰を背景に大きな力を持つに至ったアメン神官団を抑えるために、同じ太陽神であるアテンを唯一神に近い状態にまで高めます。アテン信仰が太陽光を重視するために、美術も写実性を高めたと言われています。なお、アテン信仰は、アメンホテプ4世の死去とともに終わりを告げました。
ネフェルティティの胸像は、現在、ベルリンの新博物館に所蔵されています。胸像は、ドイツによって強奪されたという説があります。1913年、エジプト政府とドイツ発掘隊が発掘品の分配に関する協議を行った際、ドイツ側は、この胸像を重要な発掘品ではないと偽ったと言われています。エジプト政府は、ドイツ政府に対して、100年間、胸像の返還を求めています。ヒトラーは、英国隊が発掘したトゥト・アンク・アメンの黄金のマスクに対抗するために、ネフェルティティの胸像を保有し続けることに執着したとも言われます。昨年の国立エジプト文明博物館のオープンに際しては、エジプト側から貸出要請が行われていますが、ドイツは、これも拒否しています。ひとたび貸し出せば、戻らない可能性が高いことを懸念したようです。
他にも、胸像に関しては、多くの議論があります。着色した石英で象眼した右眼に対して、左目は石膏のままです。これを巡っても、破損、未完成、練習台など諸説あります。そもそも胸像は、ドイツ隊がねつ造した偽作だとする説もあります。1992年にはCTスキャンによる調査が行われ、表面を覆うスタッコ(化粧漆喰)のなかに、芯となる石灰石が確認されました。それは、ネフェルティティの老化を示すシワまでリアルに彫刻されていたようです。まさにスタッコで化粧されていたということなのでしょう。ネフェルティティ本人に関する謎も、出生に関するものだけではありません。最も大きな謎は、ある時点を境に、一切の記録が無くなっていることです。死去説もありますが、アメンホテプ4世の共同統治者になった謎多きスメンクカーラー王は、ネフェルティティだったという説もあります。100年前に、我が子トトメス3世の共同統治者として君臨したハトシェプストに倣ったのではないかという説もあります。
謎の多さも、この美しい胸像の魅力なのかも知れません。トゥト・アンク・アメンの黄金のマスクは、エジプト考古学博物館で、実物を見ました。圧倒されました。ルクソールで、ハトシェプスト女王の美しい葬祭殿も見ました。ただ、ネフェルティティの胸像の実物は見ていません。4年前、ベルリンで実物を見る計画を立てていましたが、直前、イタリアで骨折したために、叶いませんでした。やはり、ネフェルティティの胸像は、エジプトにあるべきものだとも思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)