John Demjanjuk(1988) |
デミャニュークの告発も判決も、主として証言と身分証に基づいています。証言は、トレブリンカの生存者たちのものであり、身分証は、KGBが偽造したものとの疑念が残ります。イスラエルでの裁判は、アイヒマン裁判と同様、ショーとして行われます。高齢となった収容所の生存者たちの肉声を、世界に届ける最後のチャンスだったわけです。生存者たちの戦後は、厳しいものだったようです。なぜ生き残ったのか、というわけです。ナチ協力者だから生還できたのではないか、という疑念もあったはずです。デミャニュークは”イワン雷帝”ではない、という証言は出にくい背景もあったわけです。実は、収容所のスタッフとして働かされたリトアニア、ポーランド、ウクライナ等々の人びとの戦後も、同様に厳しいものでした。
強制的だったとしても、虐殺する側にいたわけですから、故郷で暮らすことはできず、多くは渡米しました。そして、息をひそめて、善良な市民として暮らしてきました。デミャニュークも、まさにその一人だったわけです。アメリカは、元ナチスに寛容だったと言われます。ドイツを復興させ、共産圏に対する盾とするために、彼らは必要な人材でした。同様に、アメリカの復興のためにも、科学者だけでなく、勤勉で優秀な労働者は必要な存在でした。ソヴィエトから提供されたものも含め、アメリカは強制収容所の看守たちのリストを持っていましたが、ほとんど何もしてこなかったようです。彼らが、根強い反共思想の持主だったことが、放任した理由の一つだとも言われます。いずれにしても、生き延びるためにナチの手下にならざるを得なかった人々も、歴史の被害者と言えます。
とは言え、”イワン雷帝”のサディストぶりは常軌を逸していたのでしょう。今となっては、ジョン・デミャニュークが”イワン雷帝”だったのか否か、真相は闇の中です。映像のなかで最も気になったのは、デミャニュークの屈託のない笑顔と態度です。楽観的で粗野で、まるで絵に描いたようなアメリカ人と言えます。冤罪を被った人々は、もっと戸惑い、怒り、悲痛な表情をしているものです。デミャニュークは、彼の考えるアメリカ人に成りきるために、努力を重ねてきた人です。死刑を宣告されても、なお楽観的なアメリカ人を演じ続けていたように見えます。その背景には、尋常ならざる決意と覚悟があったとしか思えません。過去を思えば、死刑もやむなし、しかしアメリカで築いた家族だけは汚名から守らなければならない、ということだったのでしょう。とすれば、デミャニュークは、やはり”イワン雷帝”だったか、あるいは、少なくとも絶滅収容所の看守だったのだろうと想像せざるを得ません。(写真出典:australianjewishnews.com)