2022年1月21日金曜日

もうよかろうか

萩 指月城跡
萩の指月城では、月始め、藩主が「もうよかろうか」と問い、家老たちが「まだお早う御座います」と答えるのが慣わしだったと言います。また、毎年元旦には、家老たちが「倒幕の機はいかに」と問い、藩主が「時期尚早」と答えていたそうです。長州毛利家の遺恨の深さが、明治維新につながったという話ですが、260年間も熟成に熟成を重ねた恨みなど、世界史的にも、希に見る一級品と言わざるを得ないと考えます。それほどまでに、関ヶ原後の家康による毛利家への処分は厳しかったとも言えますし、むしろ毛利家を断絶しなかったことが家康の痛恨の失策とも言えます。司馬遼太郎は、これを「千慮の一失」とまで言っています。

実は、“千慮”の家康は、毛利家断絶を決めていました。ただ、毛利家家臣吉川広家のたっての願いにより、減封どまりとしています。吉川広家は、関ヶ原の合戦のおり、家康と内通し、毛利軍を動かさなかったという大功績があり、報償として岩国を拝領していました。毛利家を存続させるためなら、岩国を返上するとまで言われた家康は、論功行賞徹底の観点から、やむなくその願いを聞き入れました。とは言え、西国10カ国を支配し、実質200万石と言われた毛利家は、長州に追いやられ、交通不便な萩を居城とさせられ、石高は36万石まで落とされます。家臣団を維持することはできず、それでも萩までついてきた多くの家臣たちは、百姓に身をやつすしかなく、重臣ですら、食べるために田畑を耕したと言います。

江戸期を通じて、元の家臣たちを中心に、組織的な新田開発が行われ、幕末の頃には、実質100万石まで近づいていたようです。また、交通の要所であったこともあり、早くから商品経済にも着目していました。米、塩、紙は、防長三白と言われ、特産品になっていました。毛利家は、着々と倒幕資金を貯めていたとも言えます。人材育成も然りだったのでしょう。高杉晋作が組成した奇兵隊は、身分にこだわらない近代的兵団の始まりとして有名ですが、駆けつけた農民たちは、260年前の家臣たちの末裔だったと言われます。皆、その日が来るのを、ひたすら待っていたわけです。世代を超えて、260年も続く怨念とは、実に空恐ろしいものでありますが、その怨念がなければ、明治維新も成らなかったわけです。

会津では、薩摩の人気が高く、長州が嫌われる、と聞きました。薩長に壊滅させられた会津ですが、明治期、薩摩は会津の復興に手を貸していたとも聞きます。江戸期最強と言われた両藩ゆえ、互いをリスペクトする気持ちもあったのでしょう。一方、長州の不人気は、会津戦争時、長州兵が激しい攻撃を行ったからだと想像出来ます。ところが、長州は、長岡藩との北越戦争に手間取り、会津戦争には参戦していません。また、事後処理も担当していません。戊辰戦争は、本当に必要な戦争だったのかという疑問があります。恐らく、長州による徳川家に対する執拗な復讐が、記憶に深く刻まれているから嫌われるのでしょう。長州の徳川家に対する積年の恨みは、そう簡単に晴らせるものではなかったということでもあります。

1986年、戊辰戦争から120年が経過したことから、萩市は、会津若松市に、友好都市提携を申し込みます。「もうよかろうか」というわけです。会津若松市からの回答は「時期尚早」でした。指月城における藩主と家老たちの会話を踏まえた発言かどうかは不明ですが、実に皮肉な回答です。東日本大震災のおり、萩市は、会津若松市に対して様々な支援を行っています。後年、会津若松市長は、萩市を訪れ、お礼を申し述べますが、あわせて「和解という意味ではない」と断言しています。260年の怨念は、武力をもって晴らされましたが、同時に、少なくとも150年の怨念を生んだわけです。(写真出典:yamaguchi-tourism.jp)

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