こうして、世界最大級と言われる山岳遭難事故「八甲田雪中行軍遭難事件」が始まります。延べ1万人が動員されたという救援隊が、遭難者を発見したのは、5日後のことでした。最初に発見された生存者は、後に雪中行軍遭難記念像のモデルともなった後藤伍長であり、仮死状態で雪中に直立していたと言います。生存者はわずかに11名、199名が命を落としています。凍死がほとんどでしたが、発狂して事故死した兵も少なからずいたようです。当時、大事故として報道もされていますが、軍が機密扱いとしたことで、全容詳細は明らかになっていなかったようです。事故の原因は、様々取り沙汰されてきましたが、いまだ特定されていません。ただ、一言で言うとすれば、準備不足ということになるのでしょう。
将兵のなかに雪中行軍経験者はいませんでした。東北の出身の兵が大半でしたが、地元出身者はいませんでした。青森の雪は、気温の違いから、東北他県の雪とは異なります。12月、第5連隊は、小編成で日帰りの予行演習を行っています。その日は、晴天に恵まれ、ピクニックのようだったとされます。この経験が、自然を甘く見ることにつながったのでしょう。気象判断が甘く、ガイドも拒否し、不十分な服装で凍傷対策も施さず、食料も装備も限定的、ビバークと言っても、狭い雪壕で、暖を取ることもなく、立ったまま過ごし、食事も不十分なまま、暗いうちから不確かな情報や判断に基づき行軍を開始しています。凍死者、行方不明者が続出し、完全に統制は失われ、指揮命令系統も機能不全に陥ります。
実は、同じタイミングで、弘前の歩兵第31連隊も、小規模な編成による雪中行軍訓練を行っています。ただ、第5連隊とは、全く連携されていませんでした。10泊11日で、八甲田山を周回する行程でしたが、全員が無事帰営しています。弘前隊は、ガイドも雇い、宿泊も民家を利用する計画でした。指揮官は、雪中行軍の経験も豊富で、兵も半数以上が地元出身者でした。弘前隊は、行軍途中で、第5連隊の遭難者と見られる人影を目撃しています。ただし、この時点で、第5連隊の行軍も遭難も知りませんでした。目撃情報は機密扱いとなり、厳重な箝口令が敷かれたと言います。遭難者と確認できたとしても、自らも命がけで行軍するなか、できることは少なかったと思われます。ただ、第31連隊の成功した雪中行軍は、第5連隊の準備不足を際立たせることになりました。
この事件が、広く知られるきっかけとなったのは、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」(1971)、それを映画化した「八甲田」(1977)だとされます。いずれもフィクションであり、事実との相違も多いようです。地元では、昔から語り継がれてきた大事件であり、私は、母校が第5連隊駐屯地跡に建っていたこともあり、強く印象に残っています。日本百名山の一つである八甲田山(1585m)は、カルデラのなかに、18の火山が噴火して出来た山です。決して高い山ではありませんが、青森県の中央に位置し、西は旧津軽藩、東は旧南部藩領地となっています。複数の頂、なだらかな稜線、数多くの湿地帯が特徴です。世界有数の豪雪地帯でもあり、中腹にある酸ヶ湯温泉は、積雪量を伝えるTVニュースの定番ポイントでもあります。(写真:雪中行軍遭難記念像 出典:ja.wikipedia.org)