2022年1月17日月曜日

二童敵討

組踊「二童敵討」
沖縄の芸能は、古典芸能も島唄も大のお気に入りです。島唄バーは、いっぱいあって、いつでも楽しめますが、古典舞踊を見る機会は、なかなかありません。もちろん、「四つ竹」など食事と舞踊を楽しめる店はありますが、さすがに観光用なので、雰囲気を味わう程度となります。なかでも、歌舞劇の組踊は、ほぼ”国立劇場おきなわ”の公演でしか見ることは出来ません。沖縄に行くときには、 国立劇場おきなわの公演スケジュールをチェックしてから出かけていますが、なかなかピッタリと日程が合うことはありません。なお、年に一回、三宅坂の国立劇場でも鑑賞できます。これは毎年楽しみに出かけています。

組踊は、能楽に近いように思います。琉球故事などを、琉球音楽と首里方言で演じます。初演は1719年とされます。首里城において、清の冊封使を接待するために演じられました。組踊を創作したのは、踊奉行だった玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)でした。公務で、薩摩や江戸に7回も出向いた玉城朝薫は、能、狂言、歌舞伎等を鑑賞し、大和芸能に関する造詣が深かったようです。また、当時の琉球には、中国から渡った崑曲系の戯曲も演じられていました。玉城朝薫は、これらの要素と琉球文化を合体させて、組踊を完成させます。この年、冊封使を接待するために上演されたという5曲は、組踊を代表する傑作「朝薫五番」として知られ、現在も上演されます。

朝薫五番は、二童敵討、執心鐘入、銘苅子、女物狂、孝行之巻の5曲です。うち二童敵討は、琉球の歴史に題材をとった作品です。15世紀、中山王尚巴志は、琉球を統一し、第一尚王朝を建てます。尚王の北山征伐の際、今帰仁城を制圧するなど活躍したのが、読谷山按司の護佐丸でした。護佐丸は、王朝の主要人物となり、王の指示で中城を増改築し、居城としました。当時、王権を狙うほど力をつけた勝連按司の阿麻和利への牽制として、護佐丸は兵馬の準備を行います。阿麻和利は、これを謀反の証左だとして王に讒言します。王は中城に兵を出し、疑われた護佐丸は、戦うことなく自刃します。直後、阿麻和利は、首里城を急襲しますが、王は、これを撃退しています。いわゆる護佐丸・阿麻和利の乱です。

護佐丸は、妻子ともども自害したとされます。ところが、二人の王子は生き延びており、踊り手に変装して阿麻和利を油断させ、首尾良く敵を討ち取るというのが、二童敵討のストーリーです。もちろん、フィクションです。実は、護佐丸・阿麻和利の乱も、尚王朝の正史である中山世鑑に記載がないことから、事実か否かは不明とも言われます。少なくとも、護佐丸の子息が一人生き残っており、後に琉球王国の有力名家となっています。その影響下で形成された伝承という説もあります。また、勝連に伝わる“おもろ”、つまり伝承等を謡う古い歌曲には、阿麻和利を名君とするものがあるようです。いずれにせよ、護佐丸は、忠節の臣として、今も沖縄では高い人気を誇ります。

”かじやで風”や”四つ竹”といった琉球舞踊は、実に優雅なもので、首里城の栄華を伝えます。琉球の宮廷舞踊も、組踊と同様、明・清の冊封使をもてなすために生まれました。最初に演じられた組踊の様子は、清の冊封副使だった徐葆光が、8ヶ月に渡った琉球滞在記として著した「中山伝信録」に記載されています。冊封とは、中国の皇帝が、従属国に新たな王が即位する際、それを認めることを言います。冊とは皇帝による任命書であり、冊をもって封じることで主従関係を明らかにします。同時期、琉球は、薩摩による実効支配も受けています。護佐丸の無念、二童による敵討は、琉球の心情に深くつながっているということなのでしょう。(写真出典:bunka.go.jp)

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