2022年4月15日金曜日

独裁者とお袋の味

独裁者は、その政権末期、暗殺を恐れはじめると、お袋の味を求めるものだそうです。理解できる話です。この地位まで登り詰めた過程を振り返れば、非道なことも行い、危ない目にもあってきたはずです。ただ、子供時代は、皆、純真で、母親に守られていはずです。無邪気で、安全だった子供時代を象徴するのが、お袋の味というわけなのでしょう。アメリカの雑誌が、現代の独裁者に使えた料理人たちをインタビューした記事に載っていた話です。また、様々な虚言やごまかしで国民を欺く独裁者たちですが、だませない人たちがいるとも言います。それは医者と料理人だというわけです。

古今東西、独裁者がいなかったことなど無かったのではないでしょうか。ある意味、人々が独裁者を求めるからだ、とも言えます。独裁的な指導者はザラにいます。それは、多分に個性の問題であり、制度的な独裁制とは異なります。人々は、強いリーダーシップを求めるものであり、また、それが必要な時代もあります。その流れに乗った独裁的指導者の一部は、武力行使も含め、無理矢理、法律や政治制度を変え、独裁制を実現していきます。より強いリーダーシップを発揮できる体制こそが、国のため、国民のためになると確信しているからです。ただ、時とともに、独裁制の弊害が生じはじめると、独裁制維持のための対応が増し、国民のための独裁制は、独裁を守るための独裁になっていきます。いわば独裁の政治目的化です。

こうなると、実にタチの悪い話になってきます。国民不在の政治体制が生まれ、独裁制という仕組み自体が、それを加速していきます。独裁者の不安と不信が、恐怖政治を生むわけです。言論統制、扇動、密告制度、粛正等が発生します。一方で、国民の歓心を買うための財政を無視したばらまき、精緻に設計された個人崇拝の徹底、あるいは近臣の忠誠を確保するための縁故主義等も行われます。独裁制の末期症状の一つが、正確な情報が独裁者に届かなくなることです。近臣たちは、独裁者の意に染まない情報を伝えなくなり、場合によっては虚偽報告も生まれます。そもそも一人ないしは少人数が全てを判断する仕組みは、間違いを起こす可能性が高い代物です。そこに正確な情報や反対意見が届かなくなれば、極めて危険な状態に陥ります。

もちろん、独裁制がすべて悪ということではありません。意思決定の早さや徹底力等、組織的な効率の良さが利点としてあげられます。それに比べて、民主制の、なんと不細工で非効率的なことか。古代アテネの民主主義を築いたペリクレスは独裁的でした。共和制ローマは、二人制の執政官を、戦時に限り、独裁官に変えています。これらは、あくまでも制度内における独裁です。独裁とは、支配者と被支配者が同じ身分であることが前提となりますので、王権といった社会階級を背景とするものは除かれます。従って、独裁が発生するのは、ほぼ近世ということになります。19世紀には、貧富の格差が南米で独裁を生み、20世紀になると、ファシスト、ナチズム、共産主義等の全体主義が発生し、また軍部独裁も起こります。また戦後独立したアフリカ諸国では、部族社会と軍部が独裁へと進みます。特に、一党独裁を掲げる共産主義国家では、党の独裁が個人の独裁を生じさせる傾向があります。

公式見解はありませんが、旧ソヴィエトの独裁者スターリンは、近臣ベリヤに毒殺されたという説が有力です。独裁者の多くは、その独裁性ゆえに、民衆か近臣に殺されています。ウクライナに侵攻したプーチンは、病気のために精神障害を起こしているのではないか、という説があります。恐らく、そんなことはありません。正常な精神状態のもと、終始一貫、合理的な判断を行っていると思われます。ただし、それは独裁者自身が築いた独善的小宇宙内に限った合理性です。思うように事が展開していないことは、独裁者自身が築いた独裁体制のいびつさが生んだ結果です。プーチンのお袋の味は何なのか知りませんが、近頃、無性に、それが食べたくなっているのではないか、と想像します。(写真:チャップリンの「独裁者」出典:amazon.co.jp)

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