2022年4月14日木曜日

礼法

小倉藩主小笠原一族の者が、京都御所へ使いに出された際、食事を供されます。礼法で知られる小笠原家が、どのように食事するのか、公卿たちは興味津々で障子のかげから見ていたそうです。これに気づいた小笠原家の者は、いきなり汁もおかずも漬物も飯の上へかけ、さくさくと食ベ始めます。公卿たちは驚き、小笠原家の者といっても、これでは田舎の百姓にも劣ると、笑いものにします。ところが、お膳を下げて箸を洗う段になって、箸の先が二分(6ミリ)とよごれていないことに気づき、大いに関心したという話です。伊丹十三の「女たちよ」に出てくる話ですが、元は子母沢寛の「味覚極楽」のなかで小笠原伯爵談として紹介されています。小笠原流には「箸先五分、長くて一寸(1.5~3cm)」という教えがあるそうです。それが6mmともなれば、まさに宗家の技です。

小笠原流は、もとも武家故実、弓術、馬術、弓馬術(流鏑馬)の流派です。小笠原家は、甲斐国に発した豪族であり、嫡流は大名を生み、豊前小倉、肥後唐津、越前勝山の藩主となります。また、京都小笠原家は、室町幕府に仕え、有職故事の家として名を成します。有職故実とは、法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束等に関する知識です。組織が大きくなると、円滑な運営のためには、かかせない事柄です。平安時代には宮中の儀式等も確立し、有職故実を家業とする者も誕生します。分かりやすく言えば、総務部の起源のようなものだと思います。鎌倉時代になると、公家故実に関東武士の習慣を加えた武家故実が生まれます。室町幕府で重きを成した京都小笠原家は、紆余曲折を経て、徳川家康に召し抱えられ、旗本として、弓馬術や武家故実の家となります。

公家故実も武家故実も、さらには礼法も、あくまでも奥の院のものであり、一般庶民には縁遠いものでした。ただ、江戸初期、水島卜也が、江戸に小笠原流礼法の私塾を開いたことから一般化していきます。水島卜也は、小倉小笠原家の流れをくむ流派で礼法を学んだ人でした。小笠原流礼法は、江戸期を通じて広まりを見せ、出版物も種々出されています。ことに女子教育においては必須アイテムともなっていたようです。明治になると、小倉藩主であった小笠原家、および旗本として弓馬術を指南していた赤沢小笠原家が、小笠原礼法の普及に尽力していきます。小笠原礼法には、いくつかの流派があるようですが、現在も、この両家がメジャーな流派となっているようです。

当然のことながら、宮廷のあった国々には礼法が存在します。さらには、国と国との交流に際しては、国際的に認知された礼法、つまり国際プロトコールが必要となります。古代ギリシャ語で、プロトは”最初”を、コルは”糊”を意味し、巻物の最初に概要を記して付けられた紙のことだったようです。転じて議定書、そして外交儀礼全般を指すようになります。国際プロトコールには、五原則と呼ばれるものがあります。序列重視、右上位、相互主義、異文化尊重、レディ・ファーストの五つです。相互主義とは、おおむね答礼・返礼のことです。プロトコールに関する最も古い文献は、16世紀イタリアの「ガラテオ」だとされます。枢機卿ガレアッツオ・フロリモンテの指示によって、その邸宅に招かれた客人に守ってもらいたいマナー・ブックとして、ジョヴァンニ・デッラ・カーサが書いたとされます。

小笠原流礼法であれ、国際プロトコールであれ、礼儀とは、相手を尊重し、リスペクトすることなのでしょう。そのうえで、それを、いかに自然で美しく相手に伝えるかということが礼法なのでしょう。小笠原家の伝書には「水は方円の器に随う」という言葉があるそうです。一般的には、人は環境に左右される、という意味で使われます。ただ、礼法的には、いかなる状況にも対応して、相手を敬う心を、自然に表現するという意味なのでしょう。それは付け焼き刃では難しく、日頃からの鍛錬が求められるということになります。四角四面で、決まり事だらけの行儀作法など、実にうっとしいものです。ただ、美しく自然な所作に接すると、心が和むのも事実です。礼儀作法とは、実に合理的なものだと理解すべきなのでしょう。(写真出典:discoverjapan-web.com)

マクア渓谷